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つづき。
「寛長院殿前筑刕太守徳山日廣大居士」。
5代藩主大村純伊の墓。
4代大村純長の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
治世では凶作や捕鯨の不振が重なり、
藩財政が逼迫していた為、
新田開発や年貢の増徴を行ったり、
家臣団をリストラしたりしていますが、
幕府普請などで好転することはなく、
借財を増やしてしまったようです。
「元通院殿前勢州太守
崇利了翁日貞大居士」。
6代藩主大村純傭の墓。
4代純長の四男として生まれ、
兄の養嫡子となってその死後に家督を相続。
財政改革として知行を蔵米制に変更し、
借財整理を行って財政を好転させています。
俳句が趣味であったという。
「慈光院殿前河州太守
正慧英翁日俒大居士」。
7代藩主大村純富の墓。
6代純庸の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
享保の大飢饉で領内が凶作となりますが、
サツマイモ栽培を奨励して領民を救済。
餓死者を出さず幕府に賞賛されています。
「高燿院殿前御史中承源
明浄翁日鑑大居士」。
8代藩主大村純保の墓。
7代純富の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
治世で玖島城石垣修理を行っていますが、
27歳で早世しました。
「濬哲院殿前信陽刺史
憲章徳翁日新大居士」。
9代藩主大村純鎮の墓。
8代純保の次男として生まれ、
父の急死により2歳で家督を相続しており、
藩政は家臣らの手に委ねられますが、
成長後は藩政改革などを積極的に行い、
倹約の実施、文武を奨励し、
藩校を五教館と改めて増築しています。
「崇謙院殿豊州刺史
徳輝益翁日讓大居士」。
10代藩主大村純昌の墓。
9代純鎮の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しており、
治世ではフェートン号事件や災害が相次ぎ、
藩政改革を行いますが初めは上手くいかず、
紆余曲折を経てある程度は成功。
五教館の校舎を新築するなどしています。
「慈徳院殿温厚愨翁日栄大居士」。
11代藩主大村純顕の墓。
10代純昌の四男として生まれ、
父の隠居により家督を相続。
引き続いて藩政改革を推進していますが、
10年の治世で病気を理由に隠居しました。
12代大村純熈の墓はこの裏手の累代墓。
青山霊園にあったものが改葬されたという。
純熈は10代純昌の十男として生まれ、
兄の養嫡子となり家督を相続し、
動乱の幕末の藩主となっています。
藩内では佐幕派と勤皇派が争いますが、
純熈が長崎奉行に任命された事により、
藩内は佐幕派が勢いづきますが、
元治元年に長崎奉行を辞任してからは、
勤皇派の渡辺清らが台頭しました。
慶應3年の大村騒動を経て、
大村藩の藩論は勤皇に統一され、
倒幕の中枢藩の一つとなっています。
廃藩後は東京に移住して明治15年に死去。
青山霊園に葬られましたが、
後に墓は本経寺に改葬されました。
以上が大村藩主の墓所です。
「永井兵庫の墓」。
大村家墓所の傍にある永井兵庫の墓。
慶應3年正月3日。城中の謡初めの行事で、
その帰路に勤王派家老針尾九左衛門が、
自宅門前で襲われ重傷を負います。
同時に勤王派藩儒松林飯山も、
路上で襲われて絶命しました。
この犯行は佐幕派によるものとされ、
下手人として雄城直記が捕らえられ、
自供により主犯格として永井が捕縛され、
永井は獄死したようです。
渡邊昇らによる粛正によって、
27名の処刑、連座50余名に至りました。
これらの犠牲のうえで大村藩は藩論を統一。
戊辰戦争後の賞典禄は3万石とされます。
これは大村藩の表高を越える破額で、
薩長土に次ぐ数字となりました。
※佐賀藩をも上回る。
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■関連記事■
・長崎県大村市 玖島城跡
大村藩大村家の居城跡。
・東京都大田区 池上本門寺
池上本門寺墓地は大村家の墓所でした。
・長崎県大村市 五教館跡
大村藩校五教館跡。