長崎県大村市 玖島城跡

玖島城大村藩の藩庁。
大村藩の藩主家である大村家は、
鎌倉時代より地頭を勤め、
領主として地名の大村姓を名乗ったまま、
江戸時代も藩主家として存続しました。
もちろん稀な例長州藩を毛利藩と呼んだり、
薩摩藩を島津藩と呼んだりするような、
藩主家+藩」の呼び名ではなく、
他藩と同じように「地名+藩」なわけです。

大村家は戦国時代有馬貴純により、
一時的に大村を追放されてはいますが、
有馬家から養子を迎えて縁戚関係を結び、
龍造寺島津などの圧迫を受けながらも、
大村家を存続させています。

豊臣秀吉が九州平定に乗り出すと秀吉に従い、
関ヶ原の戦いでは東軍に就いて、
大村の所領を安堵されました。
以降、大村藩として江戸時代を通じ、
大村家が藩主家として君臨してます。


大村公園(桜田の堀)」。
玖島城跡は大村公園として整備されています。
桜田の堀は堀跡を利用した人工の池で、
現在はTV番組の企画によって池の水が抜かれ、
水質改善の為に池干しを行っていました。


祖庭 長岡安平」碑。
長岡安平は大村藩士の子として生まれましたが、
病弱の為に武芸を好まず、
動植物などへの興味を持っていました。
維新後、政府に出仕する楠本正隆を頼って上京。
楠本に従って新潟に赴任するなどした後、
東京府土木掛として公園等の整備を担当し、
以後は公園の整備に生涯を捧げ、
全国の旧城跡の公園化にも従事しました。
この大村公園は彼の作ではないようで、
旧主君の居城を公園化するのは、
彼にとって恐れ多かったのでしょうか?


長堀」。
内堀の長堀と南堀には菖蒲が植えられており、
季節には約30万本の菖蒲が、
観光客を楽しませてくれるようです。
また、堀沿いに植えられている桜は、
大村原産のオオムラザクラで、
サトザクラの突然変異種とのこと。


板敷櫓」。
玖島城は明治期の廃城令によって、
建造物は全て破却されています。
この板敷櫓は平成4年に再建されたもので、
江戸期を通じて存在した櫓とされていますが、
このような立派な櫓ではなかったという説も。


大村藩お船蔵跡」。
城の裏手には藩の船蔵跡が残されています。
領地が大村湾を取り囲んでいた大村藩では、
交通手段としての船舶が重要視されており、
ここには藩主の御座船が格納されていいました。
今も船を係留していても問題ない保存状態です。
これは必見ですね。


大手門跡」。
お船蔵跡より戻って城内へ。
城内は大村神社の境内になっていますので、
大手門に巨大な鳥居が建てられています。


斎藤歓之助碑」。
鳥居をくぐって右手にある顕彰碑。
斎藤歓之助練兵館斎藤弥九郎の三男。
嘉永2年に兄と大村藩を訪れた歓之助は、
藩士らと試合をしてこれを打ち負かします。
驚いた藩は江戸三大道場に藩士を派遣し、
藩士の剣術の向上を計ります。
練兵館に入門した大村藩士荘勇雄は、
藩主らに神道無念流が実戦に適すると説き、
歓之助は大村藩に召抱えられ、
嘉永7年に剣術師範役となっています。
しかしながら若くして中風となり、
自身の手足は不自由となっていますが、
それでも道場へ出て稽古を続け、
門弟は千人以上に達しました。

大手門より二ノ丸に至り、
本丸に続く虎口門前に碑や像が並びます。

少年鼓手 浜田謹吾」像。
太鼓を持った少年の像。
大村藩は2万7000石の小藩ながら、
戊辰戦争に600弱名の藩兵を派遣。
賞典録3万石の恩典を賜っていますが、
藩兵の戦死者も数多く出しています。
この少年浜田謹吾もその一人で、
若干15歳で鼓手として参加し、
秋田戦争で戦死しました。
銃に倒れた歳若い少年の遺体を葬ろうとした際、
衣服には母の和歌が縫い付けられており、
和歌は下記のように書かれていました。
※資料により若干異なる。
二葉より手くれ水くれ待つ花の
        君が為にぞ咲けやこの時

訳:芽が出てより手塩にかけて育てた花よ
    君の為に華々しく咲くのはこの時だ

この和歌を見て人々は涙したという。
この縁で大村市と秋田県仙北市は、
姉妹都市となっています。


戊辰戦役記念碑」。
前記しましたが大村藩は、
戦後に賞典録3万石を賜っています。
これは薩長の10万石、土佐藩の4万石に次ぎ、
最新兵装で参加した佐賀藩を上回っています。
これは小藩でも負けない活躍が出来た証明で、
小藩ゆえ何も出来なかった」というのは、
活躍しなかった藩の言い訳でしかなく、
他の小藩が日和見を続けていたという事の証明。
もちろんそれが良いか悪いかという話ではなく、
小藩でも成せば成るという言う事。
とにかく大村藩は小藩ながら、
戊辰で多大なる活躍をしたという事です。


本丸跡」。
本丸跡には大村神社が鎮座しています。
歴代藩主と祖である藤原鎌足藤原純友と、
立藩以前の当主を祀っています。


貝吹石」。
境内にある不思議な形の石。
大小ふたつの穴が開いていて、
小さな方を吹くと法螺貝の音がするらしい。


大村純熈公」像。
幕末の藩主大村純熈の銅像。
開明的な人物であったようで、
藩政改革を積極的に行っています。
西洋軍事技術の導入を積極的に行い、
剣術を神道無念流に統一。
西洋兵制を取り入れながらも、
剣術も軽視しませんでした。
比較的早い時期に藩主である純熈自らが、
勤皇の方針を打ち出しており、
藩士らに今後の進退を明確にした為、
渡邊兄弟ら勤皇派藩士の活躍できる事となり、
倒幕路線に素早く対応しています。


中祖大村喜前公遺徳碑」。
純熈の銅像の隣には、
初代藩主大村喜前の遺徳碑があります。
キリシタン大名でしたが禁教令に従って棄教し、
大村領内のキリシタンを弾圧し、
最後は恨みを買って毒殺されたという。
※諸説あり。
キリシタンの悲しい歴史なのですが、
この棄教が大村家存続の一因でもあり、
豊臣・徳川と政権が変化する中で、
喜前が上手く立ち回った事は、
中祖と称されることも間違いは無い事でしょう。


御居間跡」碑。
境内社である玖島稲荷神社の隣にある碑で、
藩主の御居間があった場所です。
碑の建立は先に紹介した少年鼓手浜田謹吾の父。

幕末の大村藩は藩論が分かれていましたが、
文久2年に藩主純熈が長崎惣奉行に就任し、
この事から佐幕派が台頭。
尊皇派は三十七士同盟を結成して対抗します。
元治元年に純熈が勤皇の方針を明らかにした為、
以後は勤皇派が盛り返していますが、
勤皇派藩儒松林飯山が佐幕派に暗殺され、
これを期に佐幕派の粛清が行われ、
大村藩の藩論は勤皇に統一。
薩長と手を組んで倒幕への行動を開始します。
鳥羽伏見の戦いでは大津で旧幕軍の援軍を阻み、
秋田会津にも兵を派遣して功績を挙げました。

【大村藩】
藩庁:玖島城
藩主家:大村家
分類:2万7000石、外様大名

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