鹿児島県垂水市 垂水島津家墓所①

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垂水島津家御一門家の家格を有し、
大隅郡垂水1万8000石を領した家。
垂水島津家の祖は島津忠将とされており、
彼は島津中興の祖である島津忠良の次男で、
島津貴久島津宗家を継いだ為に、
相州島津家4代当主となっています。
忠将は武勇に長けた人物だったようで、
数々の戦に出陣して手柄を挙げており、
清水城の城主となりました。
しかし永禄4年(1561)の肝付兼続との戦いで、
竹原山にて忠将は戦死しています。
嫡男の島津以久は貴久らに育てられ、
成長した後に父の遺領を相続。
大友家との戦いで抜群の戦功を挙げ、
種子島屋久島口永良部島1万石に移り、
後に垂水に領地替えされています。
関ヶ原で討死した島津豊久佐土原3万石を、
徳川家との交渉で以久が相続する事となり、
以久は別家を興して佐土原藩を立藩。
垂水領は孫の島津久信に与えられました。
以降垂水島津家は江戸時代を通じて続き、
御一門家として宗家を補佐しています。


垂水島津家墓所」。
垂水島津家の墓所は心翁寺跡
維新後の廃仏毀釈で廃寺となっており、
墓地だけが残っている様です。
なんだか様子がおかしいと思ったら、
令和2年の豪雨災害で被害を受けたようで、
訪問時はその復旧作業中でした。

墓所では以久の嫡男島津彰久が3代で、
垂水領を譲られた久信が4代となっており、
代数はこれに準じます。

昌嶽元盛居士」。
4代当主島津久信の墓。
2代以久の嫡男彰久の子に生まれ、
彰久の病没後は以久に育てられました。
以久が佐土原藩主となると、
垂水領を与えられてこれを領し、
林之城を建設してこれを居館とします。
嫡男島津久敏廃嫡を画策しており、
これを諫めた家臣を手討ちとした事で、
初代藩主島津忠恒の命で隠居。
寛永14年(1637)に死去しました。

5代当主島津久敏の墓は、
この垂水島津家墓所にはなく、
隣の一般墓地に建てられていとのこと。
この理由についてはよくわかりません。
探してはみましたが見当たらず・・・。


陽〇院殿鴻曜卿玉〇〇門大居士(右)」、
蘭秀自芳大姉(左)」。
6代当主島津忠紀の墓と、
6代忠紀の奥方の墓。
初代藩主島津忠恒の七男として生まれ、
幕府の証人として江戸で幼少期を過ごし、
寛永10年(1633)に5代久敏の継嗣島津久直が、
北郷家を相続することになった為、
翌年に垂水島津家の継嗣となっており、
寛永14年(1637)に家督を継ぎました。
10年の当主在任の後に、
正保4年(1647)に死去しています。


聚徳院殿慈鑑照海大居士(右)」、
月清院殿湖窓貞緋大姉(左)」。
7代当主島津久治の墓と、
7代久治の奥方の墓。
6代忠紀の子として生まれ、
父の死去に伴い3歳で家督を相続。
治世では嫁女川の疎水工事を行っており、
また新田開発も行っています。
元禄5年(1692)に48歳で死去。。


性空院殿静海即漚大居士(右)」、
芳正院殿元明自覺大姉(左)」。
8代当主島津忠直の墓と、
8代忠直の奥方の墓。
3代藩主島津綱貴の三男として生まれ、
7代久治の養子となって家督を相続。
先代より続く嫁女川疎水工事を竣工させ、
18年の当主在任の後に死去しています。

つづく。
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