①/②
つづき。
佐賀宿を龍造寺八幡宮から東へ。
佐賀市街東側周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが佐賀宿跡(東側)。
佐賀宿全体。
「龍造寺八幡宮」。
文治3年(1187)に龍造寺季家が、
鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請し、
村中城内に創建された八幡宮。
後の佐賀城築城の際に遷座しており、
現在地近く(少し南側)に移転されて、
佐賀城の鎮守となっています。
現在は往時より少し北側に移動し、
長崎街道が境内を通っていますが、
本来は八幡宮の北側が街道筋で、
八幡小路と呼ばれていたようです。
「中町」。
前回は多布施町まででしたが、
そこから龍造寺八幡宮までが中町。
この中町の直線道が一番長い道でした。
八幡宮に戻って東側へ。
「札の辻」。
八幡小路の東側に高札場がありました。
現在は道も変わっていますが、
写真の辺りにあったようです。
「白山町」。
菓子屋が多かったという白山町。
現在は商店街となっており、
東側はアーケードとなっています。
城下では最初期に整備された町で、
旅人の目にも第一の町と映ったという。
街道は白山町を進み南折しますが、
往時の道は商業施設となっており、
道は無くなっています。
「元町」。
元々は白山元町と呼ばれた元町。
米取引所や町人の税納付所が置かれ、
城下民政の拠点となっていました。
駅場(継場)も置かれ4軒の旅籠が軒を連ね、
脇本陣となった2寺もありました。
「称念寺」。
脇本陣を務めた浄土宗の寺院。
山号は白山となっており、
白山町の由来となったお寺で、
宗門改めが行われた場所でもあります。
「願正寺」。
同じく脇本陣だった真宗本願寺派寺院。
関ヶ原で西軍に属して敗戦した鍋島家を、
西本願寺の准如が保護したとされ、
この恩義に報いる為に建立されました。
初代藩主鍋島勝茂は寺領400石を与え、
領内の真宗寺院をすべて西本願寺派とし、
願正寺を法頭職としたようです。
「呉服町」。
元町から南下すると呉服町。
この吾服町に御茶屋(本陣)が置かれました。
「道標」。
呉服町に現存する道標。
市内には3つしか現存していません。
道標より東側へ。
ここから晒橋までが呉服町。
「本陣跡」。
始め願正寺と称念寺が仮本陣とされますが、
寛政12年(1800)に野口恵助邸を借り受け、
これを改修して本陣としたようで、
後に隣接地も買収して敷地を拡げ、
本陣屋敷として整備したようです。
「柳町」。
片田江竪小路を越えると柳町。
柳町景観形成地区となっており、
西側には旧家が状態よく残っています。
「上今宿町」。
柳町を進んで南下すると上今宿町。
この辺りも旧家が残っています。
「思案橋」。
東へ曲がって少々進むと思案橋。
思案橋の名は遊里によくありますが、
南に行けは室園遊郭に至りますので、
これに由来するものと思われます。
この辺りは様々な商家が軒を連ね、
城下で屈指の賑わいを魅せた場所でした。
「荷揚場遺構」。
思案橋の横にある荷上場跡。
上今宿町の繁栄は紺屋川の舟運により、
多くの物資が運び込まれた為。
この荷上場の遺構は状態よく残り、
往時の雰囲気を伝えてくれます。
「道標」。
思案橋を越えて牛島町を進むと、
牛島構口に至ります。
この道標も現存する貴重なもの。
「牛嶋構口跡」。
現在は直進で構口橋に至りますが、
往時は枡形で少し南側に橋が掛かり、
橋の内側に構口と番所が設置されました。
①/②
■長崎街道の宿場町
■関連時期■
・佐賀県佐賀市 久保田宿跡
佐賀宿の西にあった間宿跡。
・佐賀県小城市 牛津宿跡
長崎街道の13番目の宿場跡。
・佐賀県杵島郡 小田宿跡
長崎街道の14番目の宿場町。