南林寺は鹿児島城下にあった曹洞宗寺院で、
その墓地には13万5000基の墓がありましたが。
廃仏毀釈によって破壊されて廃寺となった為、
大正8年の市街地拡大計画により移転させられ、
市営の草牟田墓地、郡元墓地、露重墓地、
興国寺墓地等に振り分けられました。
これらは縁者のあるものでしたが、
それでも無縁墓が3500余基も残っており、
著名な人物の墓を南林寺由緒墓として残し、
その他は整理されたようです。
「南林寺由緒墓」。
南洲寺に隣接する旧南林寺の墓地。
著名な薩摩藩人の墓が保存されていますが、
ここには説明板等はありませんので、
事前に調べて来る必要があります。
今回は薬丸自顕流剣術の流祖の墓を紹介。
薩摩藩といえば一撃必殺の示現流で知られ、
他流派から恐れられていましたが、
正確には派生した流派も多かったようで、
これらは他所では混同されていました。
示現流は薩摩藩の御留流で、
必殺の一の太刀以外にも連続技があり、
比較的上級藩士が習得する剣法。
好戦的な下級藩士が習得していたのは、
薬丸自顕流が多かったとされます。
「昌岳院殿薬翁清性大居士」。
薬丸自顕流流祖薬丸兼陳の墓。
示現流流祖東郷重位の五高弟の一人で、
僅か20歳で免許皆伝に達したとされ、
弟子を取ることも許されていました。
後に子孫である薬丸兼武によって、
薬丸自顕流の流祖とされますが、
本人は流派の設立はしていません。
「大心祖通居士」。
兼陳の子薬丸兼福の墓。
文武に優れた人物とされており、
細工奉行を務めていたようです。
兼福の次代は3代薬丸兼慶、4代薬丸兼雄、
5代薬丸兼中、6代薬丸兼富と続き、
7代薬丸兼武が薬丸自顕流を創設して、
示現流から独立しています。
この間に代々家伝として技を伝授しており、
異なる独自の発展を遂げていました。
その騒動で弟子の移動で争いが起き、
10代藩主島津斉興が異端と認定。
兼武は屋久島に流刑となってしまいます。
※彼らの墓はここにはありません。
「薬丸半左衛門伴兼義」。
兼武の子薬丸兼義の墓。
兼義は示現流東郷家と和解しており、
自らも優れた剣豪であった為、
藩の剣術師範に取り立てられています。
城下の下級武士が挙って弟子となり、
後に起こった寺田屋騒動の際には、
弟子達が同士討ちする事態となりますが、
この事件で薬丸自顕流の名が高まり、
更に弟子が増えるに至ったという。
多くの弟子が政府の要人となりますが、
廃藩置県後は帰農して隠棲。
後の西南戦争では多くの弟子を失い、
明治11年に死去しました。
南林寺由緒墓はまだ調べられておらず、
今回は薬丸家に留めますが、
他もまた記事にしたいと思います。
■関連記事■
・鹿児島県鹿児島市 東郷重位墓所
示現流剣術流祖東郷重位の墓。
・京都府京都市 大黒寺
寺田屋騒動の犠牲者の多くは門弟でした。