京都府京都市 大黒寺

大黒寺は伏見区鷹匠町にある真言宗寺院
島津義弘が祈祷所としたことで、
薩摩の守り本尊[出世大黒天]にちなみ、
大黒寺と称したようですが、
元々は長福寺という寺名だったようです。


大黒寺」。
薩摩藩にゆかり深い寺であった為、
一般では薩摩寺と呼ばれていたようで、
薩摩藩士らの出入りが多く、
幕末期には密儀が頻繁に行われており、
重臣らも度々宿泊していました。


本堂」。
本堂は古いものではありませんが、
祀られている秘仏[出世大黒天像]は、
弘法大師作とされています。


薩摩義士碑(左)」、
壬戌伏見義擧殉難士之墓(中央)」、
文質玄殊信士 大用鐡心信士
 源宗勝善淨和居士 釋淨徹
 正譽義山淨因信士 釋盬淨
 春山院了月信士
(右)」。
本堂前庭脇に並ぶ墓碑群。
右の薩摩義士碑平田靱負の顕彰碑で、
隣の2つは伏見義民の墓です。
天明(1785)伏見奉行小堀政方の悪政に、
文殊九助丸屋九兵衛麹屋伝兵衛
伏見屋清左衛門柴屋伊兵衛
板屋市右衛門焼塩屋権兵衛の7名は、
自らの死を覚悟して直訴を計画。
寺社奉行松平資承への駕籠訴決に成功し、
小堀政方を罷免に追い込みますが、
彼らは捕縛されて投獄されており、
赦免される頃には皆獄死しています。

本堂裏手の墓地へ。

節岺了操大居士」。
薩摩藩家老平田靱負の墓。
宝暦3年(1753)の木曽三川分流工事で、
総奉行として工事を指揮した人物。
この宝暦治水は過酷を極めたとされ、
薩摩藩では膨大な工事費用に加えて、
多大な殉職者を出しています。
※病死者33名、自殺者52名。
平田は工事終了後に死亡しており、
公式には病死とされていますが、
多数の犠牲者と工費増大の責任で、
藩主への謝罪として切腹したという。


伏見寺田屋殉難九烈士之墓」。
寺田屋騒動で殉難した9人+1人の墓。
文久2年4月23日。
有馬新七薩摩藩過激派10数名は、
大坂藩邸から三十石船伏見に入り、
他藩の志士ら含め40人程で寺田屋に集結。
関白九条尚忠京都所司代酒井忠義を襲撃し、
その首を国父島津久光に奉じることで、
無理矢理に蜂起を促す事を計画。
これを察知した久光は鎮撫使を派遣し、
彼らの暴発を留めようとします。
鎮撫使らは有馬らと押し問答となり、
挙句に斬り合いへと発展。
有馬ら6名が斬り殺されて、
2名が重症を負って翌日切腹となり、
残りは投降しました。
この墓所は犠牲者9名の墓と、
事件後に薩摩へ護送される途中、
細島で殺された中村主計の碑。
以下のその10基の墓碑。
 薩摩 有馬新七正義墓
 田中謙助盛明墓
 橋口傳蔵兼備墓
 柴山愛次郎道隆墓
 弟子丸龍助方行墓
 橋口壯助隷三墓
 西田尚五郎正基墓
 森山新五左衛門永治墓
 薩摩 山本四郎義徳墓
 中村主計重義碑

ちなみに中島主計の墓は、
殺害現場に建てられています。
宮崎県日向市 黒田の家臣
これら墓碑銘は西郷隆盛の直筆とのこと。

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鹿児島県日置市 有馬新七墓所
 伊集院に建てられた有馬新七の墓。
京都府京都市 寺田屋
 寺田屋騒動が起こった現場。

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