京都府京都市 寺田屋

寺田屋は慶長2年に伏見に開業し、
三十石船寺田屋浜を持った船宿。
※三十石船は大坂と京都を結ぶ通船。
店が置かれた京橋周辺は京への入口で、
薩摩藩の常宿に指定されており、
また西国雄藩の藩士らも宿泊した為、
大変に繁盛していたという。
幕末期の当主寺田屋伊助の妻お登勢は、
多くの勤皇志士を助けた女傑で、
伏見に来た志士で彼女を知らない者は、
居なかったとされる程。
この寺田屋で2度の歴史的事件が起こり、
非常に重要な現場となりました。


寺田屋」。
この寺田屋は再建されたもので、
残念ながら幕末期のものではありません。
現在の建物は鳥羽伏見の戦いでの焼失後、
同年に隣の敷地に再建されたもの。
一般600円で内部も見学出来ますが、
建物が当時のもののように説明され、
現存していると勘違いしてしまいます。
とはいえ似たように再建されたようで、
その雰囲気は充分に伝わるでしょう。

現存している風で紹介されますが、
再建で場所も違うのでどうしたものか・・。
とりあえず見学してみます。

坂本龍馬の宿泊した部屋」。
・・・と説明された部屋。
慶応2年1月23日
坂本龍馬三吉慎蔵と共に寺田屋に宿泊。
これを察知した伏見奉行所は、
捕吏30余人を寺田屋に向かわせました。
入浴中のお龍はいち早くこれに気付き、
裸のまま2階へ駆け上って危機を知らせ、
龍馬と三吉は踏み込んだ捕吏と交戦。
ピストルで捕吏数名を殺傷し、
なんとか脱出して窮地を脱しました。


龍馬が放ったピストルの弾痕」。
・・・と説明された弾痕。
確かに弾痕らしいものがありますが、
同じ部材で再建されたのでしょうか?


幕吏が付けたとされる刀傷」。
・・・と説明された傷。
これは刀傷かただの傷か判りません。


お龍が裸で駆け上がった階段」。
・・・と説明された階段。
この下が風呂場です。


襲撃時にお龍が入っていた湯舟」。
・・・と説明された湯舟
お龍は入浴中に窓から外を見ると、
捕吏が寺田屋を囲んでいるのを発見。
裸のまま階段を駆け上がり、
捕吏の襲来を知らせたとされますが、
思うにそんな事をしたから、
捕吏らは寺田屋に踏み込んだのでは?
気付かないフリして着替えてから、
ゆっくり2階に上がって知らせた方が、
無傷で逃げれたようにも思えます。
まあ裸で知らせる方が、
ドラマチックではありますけど。

寺田屋の建物を出て隣の敷地へ。
この敷地が旧寺田屋のあった場所。

薩藩九烈士遺蹟表(中央)」、
坂本龍馬像」。
文久2年(1862)4月23日
討幕の挙兵を計画する薩摩藩急進派は、
寺田屋に集結していますが、
これを察知した薩摩藩国父島津久光は、
鎮撫使を寺田屋に派遣します。
急進派に暴挙の中止を説得しますが、
彼らの意志は固く説得を断念。
挙句に同士討ちへと発展し、
9名もの志士が犠牲になりました。
この碑は九烈士33回忌を記念し、
明治27年5月に建立されたもの。
ちなみに薩摩藩士らが斬り合った部屋は、
グッズ販売がされていた為、
写真は撮っていません。


贈四位坂本龍馬君忠魂碑」。
何故か寝せられている龍馬の忠魂碑。
皇后の夢に龍馬が現れて、
日露戦争の勝利を伝えた事は、
龍馬の忠魂のなせる業と皇后が称え、
その龍馬を支援したお登勢に対し、
皇后は恩賞を与えています。
この碑はそれを記念したもので、
明治37年に建立された碑とのこと。

有馬新七らが殺害された場所や、
龍馬が襲撃された場所ではありませんが、
後に徳川慶喜が大正2年に現寺田屋で休憩。
これは間違いないようです。

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 寺田屋の女主人お登勢の墓。
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 寺田屋騒動の殉難烈士が葬られた寺。
鹿児島県日置市 有馬新七墓所
 伊集院にある有馬新七の墓所。

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