妙玉寺は佐賀市本庄町鹿子にある日蓮宗寺院。
鍋島家外戚石井家の菩提寺のひとつで、
その諸流の横岳鍋島家、深堀鍋島家が、
菩提寺としていました。
「本堂」。
妙玉寺は元亀元年(1570)の創建で、
元々は同市浄円寺の境内寺だったものが、
独立して移転したとされます。
寺名は竜造寺隆信家臣石井信忠室に由来し、
※信忠室の戒名は大宝院妙玉日伝大姉。
その長男鍋島茂里、次男鍋島茂賢も、
この寺に帰依してました。
「見性院殿法山日妙大神儀
月窻院殿天林妙清大姉」。
横岳鍋島家初代当主鍋島茂里と、
その正室伊勢竜姫の墓。
茂里は石井信忠の嫡男として生まれ、
その利発さを気に入られて、
継嗣のいない鍋島直茂の養子となり、
直茂の娘伊勢竜姫を娶ります。
龍造寺政家の側衆となっており、
鍋島家の跡取りに目されましたが、
直茂に待望の嫡男鍋島勝茂が誕生した為、
神埼郡西郷村3000石で別家を創設。
主家が豊臣秀吉の傘下に入ると、
その人質となって大坂城に登城し、
秀吉が自ら剥いた瓜を馳走され、
以後は五つ木瓜紋を家紋としました。
その後は鍋島家の重臣として大いに活躍し、
佐賀藩立藩後は内政や外交にも貢献。
その基礎を築いています。
慶長15年(1610)に死去。
子孫は横岳鍋島家として廃藩まで続き、
家老六家筆頭の家格を得ました。
「追腹の墓」。
鍋島茂賢が75歳で死去した際、
その家臣18名と組下の4名が、
藩に茂賢への追腹を申し出ますが、
佐賀藩の家老衆は、
「殿様ではなく大組頭の後を追い、
追腹を切るというのは妥当でない」と、
彼らに何度も翻意を促した。
しかし彼らは、
「先年筑後の八ノ院の合戦の際に、
主水殿(茂賢の兄茂里)の組の中から、
安芸殿(茂賢)が特に我々をお選びになり、
枕を並べて討死しようと約束しました。
その際は安芸殿も討死されなかったので、
我々は生き永らえてきましたが、
武士たる者が一度約束をしながら、
1日も後に残ることができましょうか」と、
制止も聞かずに全員切腹しました。
彼らの墓は茂賢夫妻の前に並んでいます。
「鍋島茂賢夫妻の墓」。
深堀鍋島家初代当主鍋島茂賢の墓と、
その正室真光院の墓。
※碑銘は埋もれて判別不能。
右側が茂賢の墓と思われます。
茂賢は石井信忠の次男に生まれ、
兄と同様に聡明で武勇に優れていました。
母の再婚により深堀純賢の養子となり、
朝鮮の役には養父に代わって参加。
後に藩主直茂より鍋島姓を与えられ、
深堀領6000石の領主となりました。
正保2年(1645)に死去。
正室の真光院は龍造寺長信の娘。
「長源院殿法圓日能 大神儀
「壽正院殿元陽慧春 大姉」。
深堀鍋島家2代当主鍋島茂里と、
正室寿正院の墓。
2代茂里は初代茂賢の長男に生まれ、
父茂賢の死後に家督を相続しますが、
上記の横岳鍋島家初代茂里と同名。
墓所も同じで間違えそうになりました。
以降の深堀鍋島家当主の墓所は、
長崎市深堀町の菩提寺で、
横岳鍋島家の以降の当主の墓は、
神埼市神崎町の神龍寺にあります。
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