佐賀県武雄市 円応寺/武雄鍋島家西墓所

古くからの武雄領主であった後藤家は、
龍造寺隆信の勢力拡大により、
その支配下となっていました。
後に隆信が沖田畷の戦いで討ち取られ、
次代龍造寺政家より竜造寺姓を賜りますが、
竜造寺家は鍋島直茂が実権を掌握。
鍋島家と龍造寺一門との融和政策が行われ、
武雄竜造寺家も鍋島姓を賜り、
以後は武雄鍋島家として、
武雄領2万余石を支配しています。

円応寺は武雄鍋島家の菩提寺。

鳥居型石門」。
寺院ですが鳥居のような石門。
この様な石造門は非常に珍しいようで、
大分県臼杵市の法音寺に似た門がある程度。
門の先は一直線に道が伸びており、
桜並木となっています。


アーチ形石門」。
これも珍しい石造門。
西欧の中世の城のような雰囲気です。
上部の「西海禅林」の額石は、
28代武雄領主の鍋島茂義が、
15~6歳で書いた文字とのこと。


戊辰戦争戦死者合葬墓」。
戊辰役で戦死した武雄鍋島家家臣の合葬墓。
墓標には、
 樋口泉兵衛親英 御厨源三郎源芳
 馬渡栄助金秋  大古場佐吉包道
 西邨喜八孝之  大渡岩太郎満房
の六名が刻まれています。
彼らは最新装備で固めた鍋島上総の部隊で、
秋田戦争での戦死者達。


本堂」。
本尊は十一面観世音菩薩
18代武雄領主後藤純明の開基で、
開山は了然禅師とのこと。
金沢大乗寺中興の祖26世住持月舟宗胡は、
12歳で円応寺の華岳宗芸に師事しました。
道元への回帰を目指して宗統復古を成就し、
曹洞宗自体の中興の祖ともされています。


本堂南西の位置にある武雄鍋島家墓所
御霊屋はかなり痛んでいるようで、
どれも今にも崩れそう。
とりあえず鍋島茂義の墓を探しますが、
どれも違うようで見つからない。
仕方なく墓石を写真に納めて退散しますが、
帰って写真を整理しても茂義の墓が無い!
・・で良く調べると、
武雄鍋島家の墓所は東西2ヶ所で、
東墓所に後期の当主の墓があったらしく、
西墓地は前期の当主の墓らしい。
・・・残念。
とりあえず西墓地の墓所を紹介致します。


前耆州太守徳叟浄賢居士」。
2代当主鍋島茂綱の墓。
武雄領主後藤家信の子として生まれ、
早くから病気の父の代理を務めており、
朝鮮出兵にも参加。
関ヶ原の戦いでは病気で参陣せず、
家臣日高信助西軍として派遣しますが、
既に東軍勝利で決着が付いており、
徳川家康に東軍と誤解されています。
同年に西軍に所属していた鍋島直茂が、
帰順を示すため立花宗茂と戦った際は、
先鋒として戦功を挙げており、
後の大坂の陣島原の乱でも活躍。
主家であった龍造寺政家から、
龍造寺姓を賜っていましたが、
藩主となった勝茂から鍋島姓を与えられ、
藩主家の親類同格となっています。


前相州太守笠叟(以下破損)
 徳巌院殿〇〇(以下破損)(左)」、
(劣化で読めず)(右)」。
3代当主鍋島茂和とその室の墓。
2代茂綱の子として生まれ、
父と共に島原の乱の討伐軍に参加。
家督相続時期は不明ですが、
父の隠居に伴って相続したとされます。
寛文2年(1662)に隠居し、
その2年後に死去しました。


龍珠淨潭居士(右)」、
慈照院殿觀〇壽音大姉(左)」。
4代当主鍋島茂紀とその室の墓。
3代茂和の子として生まれますが、
生母が正室付きの女中であった為、
諫早で密かに育てられていたという。
茂和の隠居に伴い家督を相続し、
他の龍造寺一門と共に請役(執政職)を務め、
元禄6年(1693)には福岡藩との藩境争いに、
藩主代理として臨検に立会っています。
正徳6年(1716)、死去。

初代当主後藤家信の墓もあるはずですが、
多分これかなと思う五輪塔はあったものの、
確定出来なかった為に写真は載せません。

東側の墓地は別の機会に再訪致します。

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