つづぎ。
①/②
東側の登城口から本丸跡へ。
「辰巳櫓」。
現存する三重櫓。
本丸には四隅に三重櫓が建てられており、
その2つが現存しています。
「本丸跡」。
築城当時は本丸御殿が建てられ、
明石藩の政治の中心でしたが、
火災で御殿が焼失した後は、
再建されることはありませんでした。
「人丸塚」。
明石城が築城された人丸山には、
空海が創建したという楊柳寺がありました。
平安時代の楊柳寺住職覚証は、
ある日柿本人麻呂の夢を見た為、
人麻呂の塚を造ってこれを祀り、
境内に柿本神社を設置して、
寺名も月照寺と改めています。
築城の際にこれら寺社は移転しましたが、
人丸塚は城の鎮守として残されました。
「坤櫓」。
現存するもうひとつの三重櫓。
現存する三重櫓は全国に12棟しかなく、
その数は現存天守と同じですが、
現存天守が12城12棟に及ぶのに対して、
現存三重櫓は8城12棟と偏っています。
「天守台跡」。
明石城には天守はありませんでしたが、
元々は建てられる予定だったようで、
天守台のみが設置されました。
結構な大きさの天守台です
本丸跡を出て来た方へ戻り二ノ丸跡へ。
「二ノ丸跡」。
現在は遊歩道のようになっています。
虎口によって半分に分けられており、
二ノ丸跡のさらに先が東ノ丸跡。
古図の中には二ノ丸、
三ノ丸と記載されているものもあり、
だったら大手門より入った広いスペースは、
何と呼ばれていたのか??
実際の三ノ丸はどちらなのでしょうか?
「桜堀」。
本丸裏手にある堀で、
名称から察して桜が植えられていた模様。
現在も桜はあるようですが、
これが江戸期のものなのか、
後に植えられたものかはわかりません。
桜堀からの本丸石垣。
やはり明石城の見どころは石垣ですね。
「剛の池」。
ボートが浮かび水鳥が休む憩いの池。
現在は桜堀よりも桜の名所となっています。
天然の外堀の役目を果たしていたようで、
当時はもっと大きい池だったという。
剛の池を見た後で稲荷曲輪へ。
「稲荷曲輪」。
本丸跡側面の稲荷曲輪。
名称どおり稲荷社があったのか?
調べてもわかりませんでした。
明石藩8代藩主松平斉宣は 、
12代将軍徳川家斉の二十六男。
7代藩主松平斉韶には男子がいましたが、
幕府より斉宣を養嫡子とする事を強要され、
仕方なく斉宣に家督を継がせますが、
将軍の子が藩主となったことにより、
2万石を加増されて8万石となっています。
斉宣は格式にこだわる人物だったようで、
10万石となる為に幕閣に掛け合い、
石高変わらず10万石格を認めさせました。
これによる格式維持経費は財政を悪化させ、
後々まで明石藩を苦しめています。
※斉宣は暴君であったとも伝わっており、
尾張藩領内で領民を無礼討ちし、
領内の通行を制限されたとか、
無礼討ちの親から狙撃されたなど、
複数の伝承がのこっています。
実際に斉宣は藩主就任後、
僅か4年で病死していますが、
ある程度のバイタリティがあったようで、
病弱であったとは考えられませんね。
斉宣の急死により跡を継いだ松平慶憲は、
7代斉韶の長男で本来ならば、
8代藩主となる筈でした。
慶憲は佐幕派に属していますが、
親藩大名の為に幕政には関与していません。
湾岸警備や京都警備に藩兵を派遣し、
長州征伐にも出兵しており、
鳥羽伏見の戦いにも出兵しますが、
遅参して既に勝敗は決しており、
藩兵は明石に戻っています。
その後に山陽道鎮撫総督に恭順の意を示し、
宗家の松平春嶽の取り成しで許されました。
以後は新政府軍に組み込まれ、
北越戦争に79名の藩兵を送った他、
3万両の献金を課せられています。
【明石藩】
藩庁:明石城
藩主家:越前松平家
分類:8万石(10万石格)、親藩大名
①/②
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福井藩越前松平宗家の居城跡。
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