佐賀県武雄市 円応寺/武雄鍋島家東墓所

以前訪問した円応寺でしたが、
武雄鍋島家の墓所が2ヶ所と知らず、
西墓所のみを訪問して、
東墓所には訪問していなかったので、
再度改めて訪問致しました。
佐賀県武雄市 円応寺/武雄鍋島家西墓所


アーチ形石門」。
円応寺の中門にあたる石製の門。
この門をくぐらずに右手の道を進むと、
武雄鍋島家の東墓地に到着します。


武雄鍋島家東墓地」。
御霊屋が並ぶ武雄鍋島家の東墓地。
西墓地は前期の当主もので傷みが酷く、
今にも崩れそうな御霊屋でしたが、
こちらは後期の当主のものですので、
それ程傷んでいない様子です。


義叟淨勇居士」。
5代当主鍋島茂正の墓。
4代領主鍋島茂紀の長男として生まれ、
佐賀城が火災で焼失した際は、
親類同格の多久家諫早家と共に、
俸禄半額を献上する旨を申し出ています。


曹林淨溪居士(右)」、
興春院殿華林量馨大姉(左)」。
6代当主鍋島茂昭とその室の墓。
4代茂紀の次男として生まれ、
兄で5代の茂正が死去した為、
武雄鍋島家の家督を相続しました。
佐賀藩の継嗣問題で諫早茂行や、
蓮池藩主鹿島藩主らと協力し、
6代鍋島宗教の隠居を画策しますが、
失敗しています。


徳林淨功居士(右)」、
眞如院殿輝雲鼓月大姉(左)」。
7代当主鍋島茂明とその室の墓。
6代茂昭の子として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
請役所勝手方心遣を務め、
16年の当主在任の後に死去。


岱叟淨忠居士(右)」、
天壽院殿普山淨應大姉(左)」。
8代当主鍋島茂順とその室の墓。
7代茂明の子として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
フェートン号事件後の財政難の為、
佐賀藩の財政改革を実施しますが、
回復には至りませんでした。
61年間当主を務めた後に隠居。


鶴雲淨天居士(右)」、
寵徳院殿瑞明良珠大姉(左)」。
9代当主鍋島茂義とその室の墓。
8代茂順の子として生まれ、
部屋住みのまま請役に就任。
フェートン号事件に衝撃を受けて、
藩や領内の軍事力の増強に努め、
洋学の研究及び導入を進めました。
9代藩主鍋島斉直の娘竈姫を娶り、
後の10代鍋島斉正の義兄となった事から、
大きな発言力を持っていたとされ、
斉正の藩主就任後はこれを補佐。
出費を抑える為に前藩主斉直諫言した為、
請役を罷免されています。


前男爵義法院殿諦應淨觀居士(右)」、
春明院殿華月良光大姉(左)」。
10代当主鍋島茂昌とその室郁子の墓。
9代茂義の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
長崎警護を2度務めた他、
安政6年には佐賀藩の請役に就任。
禁門の変では藩兵を率いており、
第二次長州征伐でも出陣しています。
自領でスペンサー銃6百挺と、
アームストロング砲10門を購入し、
武雄領兵の軍備を日本最強に強化。
戊辰戦争でその力が発揮され、
庄内藩に苦戦する新政府軍の援軍として、
その勝利に大きく貢献しました。
後に兵部省への出仕を勧められますが、
西郷隆盛より階級が下なのを嫌い、
任官を固辞して武雄で生涯を送っています。
明治7年の佐賀の乱では協力を求められ、
断りきれず私兵を送りますが、
これとは別に政府軍に派兵について弁明し、
乱の平定後は謝罪文を提出。
裁判所での尋問の後に許されました。
明治30年に上京して明治天皇に拝謁し、
維新の勲功により男爵を叙爵。
明治43年に死去しています。


大濤院殿(右)」。
11代当主鍋島英昌とその妻の墓。
10代茂昌の長男に生まれ、
幼児より文武両道を修めたという。
熊本鎮台歩兵連隊に一歩卒として入隊し、
2年後に退営して宮内省に出仕。
帝国議会開院式で明治天皇の扈従を務め、
御剣を捧持して玉座に侍しました。
その後に依願免官して武雄に帰郷。
日清戦争の際に陸軍軍曹として招集され、
天皇下賜の軍旗護送を遂行しています。
昭和2年、死去。

武雄鍋島家では武雄陣屋を神聖視し、
当主は危篤の状態で円応寺に運ばれて、
そこで死を迎えさせていたという。
これは通例となっていたようで、
10代茂昌まで行われたとされます。

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