菩提寺にある深堀義士の墓。
長崎喧嘩を起した深堀鍋島家家臣らの墓で、
21基の墓碑が一列に並んでいます。
長崎喧嘩は江戸時代中期の事件ですが、
葉隠の山本常朝からも絶賛されており、
鍋島武士精神を発露する事件であった為、
一度参りたいと思っていました。
元禄13年12月19日。
深堀鍋島家筆頭家老深堀三右衛門と、
甥の志波原武右衛門の両名が、
雪の降る本博多町の大音寺坂辺りを歩き、
三右衛門が杖に付いた雪泥を払いました。
それが会所役人髙木彦右衛門の使用人で、
惣内という名の者にかかってしまった為、
二人はこれを詫びますが、
惣内は許さず口論となります。
この口論は居合わせた第三者の仲裁で、
一旦収まったかに思われましたが、
惣内は髙木家の使用人10数人と共に、
夕刻に深堀鍋島家の蔵屋敷を襲撃。
三右衛門と武右衛門を襲って暴行を加え、
屋敷に居合わせた者にも暴行し、
大小の刀を奪って帰りました。
この蛮行に深堀鍋島家側も激怒し、
深堀領より10名の家臣が駆け付け、
髙木家の屋敷に押し寄せて、
襲撃した連中を差し出せと詰め寄ります。
当主彦右衛門は低姿勢で謝罪しますが、
襲撃者の差し出しには応じませんでした。
深堀側は一旦深堀屋敷に戻った後、
翌20日未明に12名で髙木邸に討ち入り、
当主彦右衛門、当事者の惣内、
他に用心棒の剣客ら9名を討ち取って、
彦右衛門の首を掲げて引き上げます。
後から9名の応援も駆け付けますが、
既に彦右衛門は討ち取られていた為、
戦闘には参加せずにそのまま帰還。
三右衛門は髙木邸の玄関で、
武右衛門は大橋(現在の鐵橋)で切腹し、
佐賀藩長崎聞番伊香賀利右衛門により、
事件が長崎奉行所に報告されました。
事態を重く見た長崎奉行林忠朗は、
幕府首脳の判断を仰ぎ、
将軍徳川綱吉以下、柳沢吉保、阿部正武、
牧野成貞ら幕閣が詮議を重ね、
討ち入った10名は切腹、
後から来た9名は流刑となりました。
境内にある深堀義士の墓。
右手前より、
「城嶋治部右衛門春朝之塔」、
「樋口市郎衛門之塔」、
「田代萬助之塔」、
「田代次八之塔」、
「向井弥兵衛之塔」、
「志波原羽右衛門之塔」、
「多々良久左衛門義陣之塔」、
「木下興惣衛門之塔」、
「多々良源太夫義重之塔」、
「深堀三右衛門之塔※※」、
「志波原武右衛門之塔※※」、
「志波原清右衛門賢宣之塔※」、
「深堀正左衛門県倫之塔※」、
「深堀嘉右衛門賢時之塔※」、
「荒木權内正矩之塔※」、
「喜多佐衛門能全之塔※」、
「高濱嘉左衛門行之之塔※」、
「宇都宮五左衛門善種之塔※」、
「高濱助右衛門時幸之塔※」、
「宇都宮只之丞正則之塔※」、
「平興左衛門貞通之塔※」。
深堀義士21名の墓。
上記の※※の2人は事件後に切腹。
※の10人は沙汰後に切腹。
事件の最初の当事者2人は既に切腹。
残った10名も名誉ある切腹を許され、
武士の一分を示しました。
後から来た9人は五島に流され、
福江藩6代五島盛佳に遇されており、
現地での妻帯も許されたという。
彼らは綱吉死去後の恩赦で放免され、
9年後に深堀に帰還しています。
髙木家側は彦右衛門の息子彦八郎が、
邸内に居たものの戦わず、
当主が討たれても隠れていた為、
これを咎められて家財没収のうえ、
長崎五里四方からの追放。
襲撃した使用人は斬首されました。
山本常朝は長崎喧嘩を称賛。
受けた屈辱を晴らす為に、
即行動を起こした深堀義士を称え、
赤穂事件で大石内蔵助が討ち入る際、
2年近くの歳月を擁した事を非難。
この間に吉良義央が病死すると、
仇討ちの機会を逸するとしています。
確かにそうかもしれませんね。
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