慶誾寺は本庄町鹿子にある曹洞宗の寺院。
元々は鍛冶屋村にあって流長院と称し、
慶長3年(1598)に慶誾尼によって、
現在地に移転しています。
慶誾尼はここに埋葬されており、
これに因んで慶誾寺と改称されました。
「慶誾寺」。
寺宝の白地金字金剛般若波羅密多経は、
山口県の大寧寺から寄進されたとのこと。
墓地は本堂の裏手にありますが、
開基の慶誾尼の墓が見つけられず。
後日調べると山門の近くにあったようです。
慶誾尼は龍造寺周家の正室で、
龍造寺隆信の実母でしたが、
周家の死後に鍋島清房の継室となり、
清房の嫡男鍋島直茂の義母となりました。
隆信の戦死後は竜造寺家を纏め、
常に強い発言力を有していたという。
本堂裏の墓地へ。
「多久家墓所」。
玉垣に囲まれた多久家の墓所。
多久家は佐賀藩御親類同格の家柄で、
龍造寺隆信の実弟龍造寺長信を祖とします。
元々は龍造寺分家の水ヶ江龍造寺家で、
隆信が当主を務めていましたが、
本家を隆信が相続した為に弟長信が継ぎ、
次代で多久姓に改められました。
ここには長信及び初~4、6代の墓があります。
「天理元心山主(左)」、
「芳巖妙春大姉(右)」。
家祖龍造寺長信の墓と正室芳姫の墓。
長信は龍造寺周家の三男。
兄隆信により多久地方の支配を任され、
主に木材調達を担当したようで、
軍事的普請に大きく貢献しました。
「天叟淨雄庵主(左)」、
「月照妙圓大姉(右)」。
初代当主多久安順の墓と正室千鶴姫の墓。
安順は長信の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
龍造寺家から鍋島家に禅譲された後も、
御親類の待遇を得ており、
龍造寺姓を遠慮して多久姓に改姓。
龍造寺高房(隆信の孫)の忘れ形見が現れ、
※高房の庶子龍造寺季明。
佐賀藩の継承を幕府に訴えた際は、
庶子に嫡流を名乗る資格ないとして、
それならば自分が最も相応しいと主張。
鍋島家の正当性を幕府に訴えています。
「愚渓堂如居士(左)」、
「久圓妙長大姉(右)」。
2代当主多久茂辰の墓と正室鶴姫の墓。
安順は後藤茂富を養嫡子に迎えましたが、
茂富は安順の勘気に触れて廃嫡。
代わって茂富の子茂辰が養継子となります。
※茂富は家祖長信の娘の子。
養父の死去に伴い家督を相続し、
佐賀藩の譜役となりましたが、
同年に藩主鍋島勝茂の嫡男鍋島忠直が早世。
遺児の翁介(鍋島光茂)が幼かった為、
勝茂は鍋島直澄を後継にしようとしますが、
※直澄は蓮池藩初代藩主。
茂辰はこれに猛反対して、
正統な後継者に継がせるよう主張。
この為に光茂が後継となりました。
島原の乱には家臣を率いて宿陣し、
99名の戦死者を出す程奮闘。
後に私借金の咎で譜役を罷免されています。
「玄山良珠居士(左)」、
「享巖妙貞大姉(右)」。
3代当主多久茂茂矩の墓と正室菊姫の墓。
2代茂辰の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続します。
藩の請役を務めた他、
唐津往還の整備を行いました。
「雄山元英居士(左)」、
「寛相良圓大姉(右)」。
4代当主多久茂文の墓と正室彦姫の墓。
2代藩主光茂の三男として生まれ、
茂矩の養嫡子となって家督を相続。
教育を振興して郷校東原庠舎を開設し、
多久聖廟を創建しています。
5代当主多久茂村は、
小城藩3代藩主鍋島元武の三男で、
4大茂文の養嫡子となり、
茂文の死後に家督を相続しましたが、
小城藩4代鍋島元延が早逝した為、
実家に戻り5代藩主鍋島直英となりました。
「輝山淨光居士(左)」、
「湖光月珊大姉(右)」。
6代当主多久茂明の墓と正室曽雄姫の墓。
須古鍋島家6代鍋島茂清の子で、
父の死去に伴い須古鍋島家の家督を相続。
5代茂村が小城鍋島家に戻った為、
藩主鍋島吉茂の命で多久家を相続しました。
25年の当主在任後に死去。
慶誾寺にある当主の墓は以上。
後期当主の墓は多久市の円通寺です。
この他にも慶誾寺墓地には立派な墓があり、
気になるところではありますが情報不足。
それ故にまた訪問するかもしれません。
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