佐賀県杵島郡 陽興寺/須古鍋島家墓所

陽興寺は白石町湯崎にある曹洞宗寺院で、
天正期(1573-1591)に龍造寺信周が創建し、
龍造寺隆信の弟。
須古龍造寺家の菩提寺としていました。


陽興寺」。
本堂は昭和6年の再建。
かつて須古を領していた平井経治が、
龍造寺隆信に敗れて敗走する際、
ここにあった寺院を焼き払ったようで、
後にこの寺を復興せよとの霊夢を見た為、
これを復興したとされています。


須古鍋島家墓所」。
本堂左側の山の中腹にある墓所。
信周は隆信により杵島郡須古を与えられ、
後の鍋島氏への国政移譲の後も、
そのまま須戸を治めています。


左奥から、
2代息子墓」「信昭妻墓」、
2代龍造寺信昭墓」、
初代龍造寺信周墓」、
信周妻墓」「初代息子墓」、
2代息子墓?」「逆修塔」。
初代当主龍造寺信周、2代当主龍造寺信昭
及びその妻子らの墓。
初代信周は龍造寺周家の次男として生まれ、
兄を補佐してその覇道に貢献し、
大友家との和議の際には人質となる等、
身を犠牲にして尽くしています。
沖田畷の戦いで兄隆信が戦死すると、
鍋島直茂への国政移譲に賛成し、
重臣としてこれを支えました。
2代信昭は信周の次男に生まれ、
相神浦松浦家の養子となっていましたが、
龍造寺家誠文禄の役で戦死し、
実家に戻って家督を相続。
家老として鍋島家を支えています。


3代鍋島茂周墓(右)」、
3代重周室墓(左)」。
※苔生して墓碑銘が読めず。
3代当主鍋島茂周の墓とその室の墓。
2代信昭の子として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
初代藩主鍋島勝茂より鍋島姓を与えられ、
以後は須古鍋島家となっています。
島原の乱にも参加しており、
家老として佐賀藩を支えました。


4代鍋島正辰墓(右)」、
〇〇院殿全慶妙安大姉(左)」。
※正辰の墓は風化して読めず。
4代当主鍋島正辰の墓とその室の墓。
3代茂周の子として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
遅くに家督を相続した為、
僅か8年の当主在任で死去しています。


5代鍋島茂俊墓」。
※苔生して墓碑銘が読めず。
5代当主鍋島茂俊の墓。
4代正辰の子として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
妻山神社一の鳥居を建立しています。


〇〇〇卓龐寶之居士(右)」、
〇〇院殿壽山永頂大姉(左)」。
6代当主鍋島茂清の墓とその室の墓。
5代茂俊の子。
情報が無くよくわかりません。

7代鍋島茂明は後に多久家を相続。


8代鍋島茂族墓」。
※苔生して墓碑銘が読めず。
8代当主鍋島茂族の墓。
5代茂俊の子。
同じく情報が無くよくわかりません。


瑞隆軒珠嶽道觀居士(左)」、
〇〇院殿海雲慧量大姉(右)」、
10代当主鍋島茂訓の墓とその室の墓。
栗岡山豊前坊を建立したとされています。

資料によると9代は茂訓ですが、
説明板によると別に9代が居るらしい。


11代鍋島茂倫墓(右)」、
11代茂倫室墓(左)」。
※風化で墓碑銘が読めず。
11代当主鍋島茂倫の墓とその室の墓。
10代茂訓の子。
こちらも情報が無くよくわかりません。


瑞應軒麒岳宗麟居士」。
12代鍋島茂曹の墓。
11代茂倫の子。


13代鍋島茂臣墓(右)」、
高俊院殿蘭〇淨〇大姉(左)」。
※茂臣の墓碑銘は風化で読めず。
13代当主鍋島茂臣の墓とその妻の墓。
11代茂倫の子。


文貞院善〇季祥大姉(右)」、
文成軒清蔭大庇居士(中央)」、
常眞院賢質誠貞大姉(左)」。
14代茂眞正室の墓、
14代鍋島茂眞の墓、
14代茂眞継室の墓。
9代藩主鍋島斉直の十四男に生まれ、
13代茂臣の養子となり家督を相続し、
実弟の10代藩主鍋島直正を補佐。
長年佐賀藩で請役を務めており、
藩校弘道館学館頭人にも就任しました。
安政6年に家臣の不祥事で失脚。
慶応2年に死去しました。


徳明軒〇嶽良英居士
 泰心院月珠泉大姉
」。
15代鍋島茂朝とその妻の墓。
14代茂眞の子に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続し、
幕末最後の当主となっていますが、
その動向等はよくわかりません。

資料が少なく書く事も無い。
ただ立派な墓所が白石町湯崎を望み、
山の中腹から見下ろしていました。

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