佐賀県多久市 圓通寺/多久家墓所

圓通寺鎌倉時代初期の創建で、
多久家初代多久太郎宗直が開基。
寺領千石を有して末寺140を数えましたが、
その後に衰微していたようです。
慶長2年(1597)に龍造寺長信が再興し、
その庇護を受けて再度隆盛しており、
多久家の菩提寺となりました。
※長信の子龍造寺安順が多久姓を名乗り、
 佐賀藩御親類同格となっています。



本堂」。
本堂は文久3年に出火して焼失。
11代当主多久茂族が再建しています。
長信の逆修供養塔があるらしいのですが、
どこにあるかわかりませんでした。

多久家の墓所は本堂裏手の山の中。
手前には家臣と思われる古い墓もあります。

多久家墓所入口」。
左右の石燈籠風のものは逆修六地蔵
慶長11年に建てられたものとのこと。
笠の下に六体の地蔵が彫られています。


多久家墓所」。
雛段のようになった墓所。
10万石クラスの大名墓地のような規模です。
正面は青山霊園より改葬された累代墓。

ここにあるのは7代以降の当主の墓で、
それ以前の当主は佐賀市本庄町の慶誾寺


祥雲軒鳳山見瑞老居士」。
7代当主多久茂堯の墓。
6代多久茂明の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
諫早家の減封に伴う一揆が発生すると、
藩命でこれを鎮圧しています。


慈雲軒蘭山淨蕙居士」。
8代当主多久茂孝の墓。
7代茂堯の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
12年の当主在任後に病を理由に隠居。


慈照院殿道柱良覺老居士(右)」、
聖雲院殿賢室妙貞大姉(左)」。
9代当主多久茂鄰と正室勝姫の墓。
7代茂堯の三男として生まれ、
継嗣のない兄茂孝の養子となっており、
茂孝の隠居に伴い家督を相続。
久留米藩との境界争い解決で評価されますが、
藩財政悪化で罷免されています。
正室勝姫は神代鍋島家9代鍋島茂真の娘。


遅春院殿梅渓一睡居士」。
10代当主多久茂澄の墓。
9代茂鄰の三男として生まれ、
父の罷免により家督を相続しました。
幼少より聡明な人物だったようで、
9代藩主鍋島斉直に重用されますが、
10代藩主鍋島斉正には嫌われたようで、
藩政から遠ざけられています。
天保7年(1836)に深堀鍋島家の嫡嗣で、
後の深堀家当主鍋島茂勲の正室區姫と、
不義密通をかさねていた事が発覚。
※區姫は10代藩主斉正の妹で、
 しかも自身の正室為姫の妹でもあった。
死罪は免れますが知行を召し上げられ、
多久家は一旦断絶しています。


水江龍造寺十四世孫
 従五位男爵多久茂族墓
(右)」、
従五位男爵多久茂族室鍋島雛子墓(左)」。
11代当主多久茂族と正室雍姫の墓。
10代茂澄の長男として生まれますが、
父が不義密通をした為にお家は断絶。
しかし先祖の功に免じて再興が許され、
多久家の家督を相続しました。
幕末動乱期の当主として藩に貢献。
長崎京都の警護、長州征伐に出陣し、
戊辰戦争でも宇都宮会津を転戦しています。
松平容保父子の東京護送も担当。
維新後は明治政府に出仕しており、
弁事局小弁浜松県権令を経て、
伊万里県権令を務めました。
退任後は旧士族の為に炭鉱開発や、
授産興行の育成に尽力しています。


水江龍造寺十五世孫
 正五位男爵多久乾一郎墓
(右)」、
正五位男爵多久乾一郎室伊丹千枝墓(左)」。
12代当主多久乾一郎と妻千枝の墓。
11代茂族の長男として生まれ、
明治4年に米国留学して9年に帰国。
内務省を経て宮内省に転じ、
後に東宮侍従となっています。

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