上田城といえば真田家の城として、
2度の徳川勢の攻撃を防いだ事で知られています。
特に昨今は大河ドラマ「真田丸」の影響からか、
知名度は相当高いでしょう。
とはいえ、幕末では真田家の城ではなく、
江戸中期より松平伊賀守家が藩主となっています。
僕は大河「真田丸」のオープニングに登場する山城が、
この上田城と思っていたのですが、
調べてみるとあれは備中松山城とのこと。
真田家とは全く縁もゆかりも無い城ですが、
岩山の城郭が真田の居城イメージにぴったりだったとか。
小学生の頃に学研歴史漫画で真田幸村を知ってから、
真田幸村は好きな歴史上の人物のひとりでしたので、
真田家ゆかりの上田城は、
是非とも行ってみたい城のひとつでした。
上田城は天正11年に従属していた徳川家康の命により、
真田昌幸が築いた城です。
当初の真田領であった沼田の領有権が、
徳川家と北条家の講和の条件となった為、
家康は沼田領の引き渡しを昌幸に求めますが、
昌幸はこれを拒否し、両者の関係は悪化。
結局昌幸は上杉景勝側に寝返り、徳川家と敵対します。
これに対し家康は真田討伐を決定し、
鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らが上田城を攻撃。
真田勢は上杉勢の援軍を得てこれに対抗し、
真田勢の戦死者約40人に対し、
徳川勢は300~1300の犠牲者を出しています。
※第一次上田合戦。
その後、豊臣秀吉が天下を取り、昌幸は豊臣家に従属。
秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いの前哨戦で、
昌幸と次男の真田信繁(幸村)は徳川家に反目し、
長男の真田信之(信幸)は徳川家に従います。
家康の嫡子徳川秀忠は約3万8千の軍勢で上田に進軍。
この時は大規模な戦闘は無く、小競り合いを経て、
秀忠は家康からの命令で転身し、
抑えの兵を残して美濃方面へ向かいました。
※第二次上田合戦。
関ヶ原の戦いが家康の勝利で幕を閉じると、
昌幸は家康に降伏し、信之の助命によって、
昌幸・信繁は九度山に配流となり、上田城は廃城。
昌幸の旧領は信之が引き継いで上田藩を立藩。
上田城が廃城となっていた為、沼田城を藩庁としています。
※昌幸は九度山で死去。信繁は後に大坂城に入りました。
大坂の陣後、信之は松代藩に加増転封となり、
代わって大坂夏の陣で真田信繁隊や、
毛利勝永隊と戦った仙石忠政が6万石で入封。
上田城が再建されて、仙石家の統治は3代続き、
3代藩主仙石政明が出石へ移封となっています。
代わって松平伊賀守家が上田藩に入って以後、
廃藩置県まで続きました。
上田城へは同僚と共に訪問。
自分だけだったら腹ごしらえは適当に済ますのですが、
今回は上田城跡公園前の「千本桜」で昼食を取ります。
「六文銭かき揚げ天そば」。
蕎麦が全て隠れる大きさのかき揚げが乗っており、
チクワで六文銭が表現されていました。
そのインパクトもさることながら、
実際に蕎麦を食べてみると美味い!
「上田城跡公園」。
本丸跡および二ノ丸跡は、公園として整備されています。
市民会館やプール、博物館などの施設もあって、
市民や観光客で賑わっていました。
「本丸南櫓」「東虎口櫓門」「本丸北櫓」。
左右の櫓は昭和24年に復元され、
中央の櫓門は平成6年に復元されたもの。
上田城の顔ともいえる3棟です。
赤い六文銭の旗印が建てられており、
テンション上がりますね。
「真田石」。
櫓門向かって右の石垣に使用される巨石。
真田信之が松代へ移る際、
この石を父の形見に持って行こうとしましたが、
数万人の人夫の力でも動かなかったとのこと。
そこまで大きい石じゃないので、
ちゃんと石垣を解体すれば動きそうです。
石垣を崩さずに引き抜こうとしたって事でしょうか?
もしそうならば数万人はおおげさとしても、
引き抜くのは難しいかもしれませんね。
「眞田神社」。
櫓門を入った正面にある神社。
藩祖や歴代藩主を祀る神社が、
城跡に設置されている例は数多いのですが、
それは廃藩時に藩主であった藩主家が殆どで、
上田城の場合は、松平伊賀守家の神社なら不思議はない。
ですが真田家は転封したので不思議だなと思ったら、
やはり前身は藩祖松平忠晴および2代の松平忠昭、
3代で上田藩初代藩主の松平忠周を祀る神社だったようです。
その後、歴代藩主家の真田家と仙石家を合祀し、
上田神社と改称しますが、市内に同名神社があったことから、
初代藩主家の名を取って眞田神社に改めたとのこと。
なるほど。
「真田井戸」。
真田神社の後方にある大きな井戸。
この井戸は場外への抜け穴となっており、
有事の際に脱出することが出来たと伝えられます。
「伝えられます」ってことは調査して、
そのような抜け穴は無かったと言う事ですね。
まあ上田城は一度廃城になってますので、
その時に埋められてしまったという想像も、
できなくはないですね。
「西櫓」。
上田城唯一の現存建築物。
本丸には9つの櫓があったようで、
その規格がほとんど同じだったとのこと。
仙石忠政の時代に建てられたもので、
江戸時代前期に建てられた現存する櫓は数が少なく、
貴重な建築遺構となっています。
「本丸跡」。
真田神社の北側の一段高い場所が本丸だった場所で、
御殿が建てられていたのでしょうが、
絵図や間取などの資料が無いので、
どのような建物だったかはわかりません。
「史跡 上田城跡本丸跡」という「跡」が、
3個も付いている不思議な石碑がありました。
「戊辰役上田藩従軍記念碑」。
本丸中央付近にある戊辰戦争の記念碑。
上田藩は戊辰戦争に約500人の藩兵を出兵しており、
そのうちの11名が戦死しています。
「新田義徳先生寿蔵碑」。
新田義徳は江戸在勤の上田藩士で、
津和野藩士吉木順吉が江戸に開いた私塾で仏語を学び、
上田藩江戸藩邸の学問所の文学教授に任命されています。
維新後は上田に帰り、40年余り教職につきました。
この碑は教え子や知人達により建てられたもの。
「上野集義堂碑」。
上田藩士上野尚志の顕彰碑。
上田・小県地域の歴史書「信濃国小県郡年表」の著者で、
「信濃国小県郡年表」は化石の話から合戦の話など、
郷土に関わる様々な記録を記された貴重な資料で、
最近復刻版も出版されています。
本丸を出て二ノ丸へ。内堀の外周を歩きます。
「贈従五位赤松小三郎君之碑」。
幕末上田藩といえば赤松小三郎が真っ先に挙げられます。
藩校明倫堂に学び、江戸に出て和算家内田弥太郎に数学を、
西洋砲術家下曽根信敦に砲術や兵学を学び、
佐久間象山にも師事しました。
勝海舟と弟子となり長崎海軍伝習所で学び、
帰郷して調練調方御用掛、砲術道具製作御掛などを務めます。
慶応2年に「英国歩兵練法」を翻訳。
これを機に諸藩より招聘を受け、
京都で薩摩藩に招かれ兵学教授となり、英国式兵学を指導。
同時に私塾も開いて、諸藩士達にも英国兵学を教えました。
慶応3年9月、藩からの召喚命令に従い帰郷を決めますが、
その道中に中村半次郎ら薩摩藩士によって暗殺されています。
暗殺の理由は、武力討幕に反対し周旋を謀った事と、
佐幕派の上田藩に薩摩の軍事機密をばらす疑いがあったから。
恩を仇で返すとはまさにこの事です。
また、赤松は日本で初めて議会政治を提言した人物です。
「上田招魂社」。
戊辰戦役戦死者および日清日露戦役、
大東亜戦争の戦死者を祀る招魂社。
境内には赤松小三郎の記念館があり、
京都の金戒光明寺にあった墓石が、
ガラスケースに入れられて展示されています。
上田藩は佐幕派の譜代藩で、
6代藩主松平忠固(忠優)は老中として開国を主張。
攘夷論を唱える水戸藩主徳川斉昭と対立し、
事態の収拾を図ろうとする老中首座阿部正弘によって、
同じく老中の西尾藩主松平乗全と共に罷免されました。
堀田正睦が老中首座となると、忠固は老中に復帰。
日米修好通商条約締結に勅許は不要と唱え、
井伊直弼の大老就任に奔走しますが、
後に井伊と対立する事となり、
日米修好通商条約調印後に老中を罷免され、
隠居・謹慎を命じられます。
忠固は密航に失敗して捕えられた吉田松陰に同情的で、
国元蟄居という軽罰で済んだのは、忠固の意向によるもの。
松陰は後にその事を知り、忠固を深く敬慕していたようです。
跡を継いだ7代藩主松平忠礼も佐幕派で、
幕府崩壊後も徳川と存亡を共にすると明言しましたが、
重臣達の説得により、新瀬府軍が城下へ入ると恭順。
戊辰戦争に藩兵を派遣しています。
【上田藩】
藩庁:上田城
藩主家:松平伊賀守家(忠晴流藤井松平家)
分類:5万3000石、譜代大名
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