禁門の変の責任を取って自刃した三家老の一人国司親相。
彼を祀る万倉護国神社に行ってきました。
「万倉護国神社」。
慶応より長州藩内で設置された招魂場のひとつとして、
禁門の変の責で自刃した領主国司親相と、
禁門の変や幕長戦争で戦死した家臣26名を祀る峠山招魂場が、
奥万倉土井に建立されています。
それとは別に、昭和17年万倉村民により、
この地に万倉護国神社が建立され、
万倉には峠山招魂社と合わせて2つの招魂社ができました。
平成18年になってこの2つ招魂社が合祀することとなり、
それぞれ英霊の招魂墓や顕彰碑などがここに移管されています。
「贈正四位国司君之碑」。
国司親相は通称国司信濃と呼ばれ、
寄組5600石万倉領主でした。
三家老の他の二人は準一門の永代家老家出身ですが、
寄組である国司家は、本人の実力がないと家老にはなれない。
※他の2人が実力が無いというわけではありません。
家督を相続して早くから家臣達に鉄砲の訓練をさせるなど、
先見性を持った人物だったようで、
緒組総支配、赤間ヶ関防備総奉行など軍事面で活躍し、
禁門の変でも来嶋又兵衛と共に蛤御門まで進撃しています。
「国司信濃公像」と「歌碑」。
国司親相は歌才もあったようで、秀作を多く残しています。
この歌碑に書かれているのは、禁門の変後の謹慎から、
徳山藩に身柄お預けとなって、万倉を出発する時に歌ったもの。
「跡たれて君をまもらむみどりそふ 万倉の山の松の下かげ」
すでにこの時点で死を覚悟していたようです。
国司家家臣達の招魂墓。
峠招魂場にあった招魂墓が移管されています。
禁門の変と小倉戦争(赤坂の戦い)で戦死した国司家の家臣達で、
その人数からも国司家家臣団が勇猛であったものと推測できます。
他にも佐賀の乱、西南戦争での戦死者から、
その後の大東亜戦争の万倉出身者の招魂墓が並べられていました。
ちなみに国司家は戦国時代の国司元相の末裔。
元相は将軍足利義輝に「槍の鈴」の免許を与えられた豪の者で、
生涯で130余の首級を挙げたとされ、
なんと100歳まで生きたそうです。
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