奥の院墓地にある結城秀康の霊廟。
結城秀康は徳川家康の次男でしたが、
冷遇されていたとされており、
後に豊臣秀吉の養子として出され、
更に結城家へ養子に出されています。
関ケ原の戦いでは上杉家の抑えとなり、
その功で北ノ庄68万石に加増。
越前松平家の祖となりました。
「松平秀康霊屋(浄光院)」。
慶長12年(1607)に長男松平忠直が建立。
木材は殆ど使用されておらず、
瓦、壁、内部の柱や棟木、扉に至るまで、
全てが石造りとされました。
秀吉の養子となっていた秀康は、
その後継者候補のひとりとなりますが、
秀吉に実子の鶴松が誕生すると、
下総の名跡結城家へ養子に出されます。
不遇ながら武将としての器量は一流で、
剛毅で体躯も良かったようで、
家康も秀康の才を信用していた為、
最重要な上杉家の抑えを任せたという。
弟で将軍となった徳川秀忠も秀康を敬い、
別格の扱いで対応していました。
秀康の墓は福井にもありますが、
遺骨は高野山に収められたとされており、
ここが本墓と思われます。
「秀康実母霊屋(長勝院)」。
秀康霊屋の隣にある実母の霊屋。
秀康の実母於万は築山殿の奥女中で、
※築山殿は家康の正室。
家康の手付となって秀康を妊娠しますが、
築山殿は於万の妊娠を許さず追放。
於万は本多重次の差配によって、
中村源左衛門宅で秀康を出産します。
築山殿が認めなかった為に、
家康も実子と承認する事が出来ず、
その後も重次や中村家に育てられました。
築山殿が謀反の疑いで殺害された後に、
実子として承認されてますが、
秀康は秀吉の養子として預けられ、
後に結城家を相続。
その後に北ノ庄に転封されると、
於万もこれに同行しています。
秀康は於万に先立って死去しており、
於万は元和5年(1619)に死去。
説明板には「慶長9年(1604)に秀康が、
母公を祀る為に建立した」となってますが。
建立時はまだ於万は健在ですし、
これは逆修墓のようなもの??
それにしては鳥居の扁額に「長勝院」とあり、
秀康の死後に名乗った号が刻まれてます。
どういう事でしょう?
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