福井藩越前松平家の菩提寺である大安寺は、
田谷寺という大寺院の跡に創建され、
殆どの建物を創建当時のまま残しています。
田谷寺は48の坊舎を持つ大寺院でしたが、
織田信長の越前侵攻で全て焼失してしまい、
その後80余年放置されていたという。
この跡地に4代松平光通が大安寺を創建し、
越前松平家の永代菩提所としています。
開山の大愚禅師は臨済宗の高僧で、
江戸谷中の南泉寺や播磨の法憧寺等、
多くの寺院を開山していました。
この大愚禅師が療養で加賀山中温泉を訪れ、
その帰路で福井に入った際、
光通が福井城に招いて説法を聞き、
これに感銘を受けて帰依。
開山に招いて大安寺が建立されます。
「大安寺」。
福井市は空襲によって壊滅的被害を受け、
多くの歴史的建造物が焼失していますが、
大安寺はその被害を受ける事なく、
その殆どが創建当時の堂宇です。
訪問時は令和の大修理が行われており、
本堂などが素屋根で覆われていました。
墓所の参拝はお寺の拝観付で500円。
修理中で全てを拝観する事は出来ませんが、
修理の様子が見学できます。
お寺を拝観した後、越前松平家の墓所へ。
菖蒲園の脇より階段で登ります。
途中には一般霊園の他に藩士の墓所があり、
幕末期に活躍した人物らの墓がありました。
「笠原白翁君墓」。
蘭方医笠原白翁の墓。
漢方医として城下で開業していましたが、
蘭医学の修得を志して京都へ遊学。
当時猛威を振るっていた天然痘に、
牛痘による予防が効果があると知り、
痘苗輸入が急務と嘆願書を提出しました。
痘苗が輸入されると福井にこれを齎し、
自宅横に仮の痘苗所を設置。
後に藩営の除痘館が開設されています。
この功績で御目見医に就任。
明治13年に死去しました。
「従四位毛受洪墓」。
福井藩士毛受洪の墓。
毛受は福井藩士毛受福高の長男に生まれ、
藩校明道館の訓道師、外塾師取扱掛、
大番頭、書院番頭格、
用人奏者兼軍帳掛等を歴任しています。
京都にて他藩との周旋や情報収集を行い、
慶応2年には中老に昇進。
新政府には同藩由利公正らと参与に就任。
福井藩権大参事、集議院幹事等も務め、
晩年は福井藩の歴史編纂を行っています。
明治33年、死去。
笠原白翁の墓所より橘屋正玄家の墓所へ。
「橘曙覧之奥墓」。
国学者で歌人の橘曙覧は、
越前の有力商人橘屋正玄家の6代目で、
国学を学んで稼業を弟に譲って隠居。
京都の児玉三郎や飛騨の田中大秀に入門し、
隠遁して藁屋を称し和歌に没頭しました。
安政の大獄で謹慎していた松平春嶽は、
彼の噂を聞いて万葉集の秀歌を選別させ、
後に藁屋に自ら訪れて出仕を求めましたが、
橘はこれを辞退しています。
慶応4年、死去。
正玄家の墓所よりさらに登ると、
越前松平家墓所の千畳敷が現れてきます。
「千畳敷」。
この墓所は4代松平光通が造営し、
祖父である初代福井藩主松平秀康及び、
父松平忠昌、母慶壽院の墓碑を建立。
後に光通と正室、そして5代、8代、9代、
11代、12代の墓碑が建てられています。
墓所の四方を巨大な石柱石垣が囲み、
笏谷石の石板千畳が敷き詰められており、
通称「千畳敷」と呼ばれました。
「浄光院殿前黄門森岩道慰運正大居士」。
一番奥にそびえる藩祖結城秀康の墓碑。
越前松平家の家祖で徳川家康の次男ですが、
幼少期には母於万の方と共に冷遇され、
※正室築山殿の嫉妬によるという。
兄松平信康が自刃した後も後継者とされず、
小牧長久手の戦いの後に、
豊臣秀吉の養子となっており、
後に結城晴朝の養子となって、
名籍の結城家を継いでいます。
関ケ原の戦いでは本戦には参加せず、
上杉家の抑えを任されており、
その功で越前68万石を与えられました。
慶長12年(1607)、死去。
「隆芳院殿前参議郭翁貞真大居士(左)」、
「慶壽院殿禅誉月窓清心大禅定尼(右)」。
3代松平忠昌と正室道姫の墓。
別家を興し高田藩藩主となっていましたが、
兄の2代松平忠直が不行跡で改易となり、
宗家を50万石で継いでいます。
当時北ノ庄であった地名を福井と改称。
福井藩の藩政の基礎作りを行いました。
「大安寺殿前越州太守左少将
萬休毎毎大居士(右)」、
「清池院殿法誉性龍大禅定尼(左)」。
4代松平光通とその正室国姫の墓。
父の遺言で庶兄松平昌勝に松岡藩5万石、
庶弟松平昌親に吉江藩2万5000石を分与し、
光通は福井藩45万石を相続しています。
優秀な施政家であったようで、
法整備や文武の推奨を行って基礎を固め、
菩提寺大安寺も創建しました。
しかし相次ぐ天災によって藩財政は逼迫。
正室国姫は男児を産めない事を苦に自害。
庶子の松平直堅も出奔するなど苦難が続き、
精神を病んだ光通は自害しています。
「探源寺殿前羽林次将
龍山悟徹大居士(右)」、
「徳正院殿南越太守前羽林次将
廣譽明達賢提大居士(左)」。
5代及び7代松平昌親(吉品)と、
10代松平宗矩の墓。
吉江藩主となっていた昌親は、
兄の遺言によって宗家を継ぎましたが、
これを良く思わない家臣が多かった為、
就任2年で兄の子松平綱昌に家督を譲り、
隠居しています。
しかし綱昌は奇行の末に蟄居処分となり、
福井藩は25万石に減封されたうえで、
幕府の命により昌親が再び藩主に就任。
将軍徳川綱吉より偏諱を受け吉品と改名し、
減収を俸禄半減やリストラで補いました。
10代宗矩は財政再建の為に倹約令を発し、
勝手吟味役を設けて厳しく推奨。
災害に見舞われて再建は難航しましたが、
貧困や災害に苦しむ民に救米の提供を行い、
善政に尽くしたとされています。
「昇安院殿前羽林次将
住譽知眞本榮大居士(左)」、
「豊仙院殿前拾遺補闙
圓譽照元安住大居士(中)」、
「源隆院殿前南越大守従四位
上羽林次将俊誉慈愍哲雄大居士(右)」。
8代松平吉邦、9代松平宗昌、
11代松平重昌の墓。
吉品より家督を譲られた8代吉邦は、
倹約や経費節減など善政に努め、
時の将軍徳川吉宗に賞賛されたという。
9代宗昌は吉邦の兄で、
松岡藩の藩主となっていましたが、
吉邦が継嗣なく死去した為に宗家を相続。
松岡藩は福井藩に吸収されています。
11代重昌は一橋家当主徳川宗尹の長男。
10代宗矩の養嫡子となって家督を相続し、
僅か16歳で死去しました。
以降の藩主墓所は運正寺等にありましたが、
※10、12、13、14、15代。
福井大空襲の際に破壊されてしまい、
江戸の菩提寺海晏寺に改葬されています。
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