若狭国守護武田元光の築いた後瀬山城。
その山麓に水堀を配した守護館が建てられ、
長らく若狭国の本拠地となっていました。
その後に京極高次が若狭国主に任じられ、
小浜城が築城された事により役目を終え、
次代京極忠高がその跡地に泰雲寺を建立。
父高次の牌所としていましたが、
忠高は松江藩へと加増転封されています。
代わって酒井忠勝が若狭国に入り、
以後は廃藩まで酒井家が支配しました。
「空印寺」。
忠勝は小浜に父酒井忠利の霊骨を移し、
寺名を建康寺と改めており、
更に2代酒井忠直が忠勝の七回忌に、
伽藍を増築し空印寺と改めます。
「八百比丘尼入定の地」。
空印寺は小浜藩酒井家の墓所の他、
八百比丘尼所縁の寺として知られます。
飛鳥時代頃の若狭にいた高橋という長者が、
ある男から夕食に招かれた際に、
上半身が人間の奇妙な魚を出されますが、
長者は気味が悪かったので食べません。
そこで男はその魚を土産に持たせますが、
もちろん長者は帰っても口にはしない。
しかしこれに興味を示した長者の娘が、
こっそりとその肉を食べてしまう。
するとその娘は全く老いなくなってしまい、
周りが老いて一人きりとなり、
悲しみに暮れた末に諸国を巡礼するに至り、
800歳になって若狭に戻り、
この洞窟で静かに死に至ったという。
「山門」。
空印寺と改称した際に建立された山門。
立派な薬医門ですが屋根が傾いています。
それもまた歴史が感じられる味ですね。
「本堂」。
桁行十一間の大きな本堂。
寺名は初代忠勝の戒名空印寺殿より。
本尊は馬頭観音です。
酒井家の墓所は本堂の裏手にあります。
こちらには本堂の右脇より行くのですが、
扉が閉じられていました。
お寺の方に参拝のお願いをすると、
車いすの前住職らしきが出て来られて、
住職は出かけているので、
勝手に開けて入っていいとのこと。
お言葉に甘えて勝手に入らせて頂きました。
※後で調べると拝観200円とのこと。
「酒井家墓所」。
小浜藩主の忠利流酒井雅楽頭家の歴代墓所。
雅楽頭宗家5代酒井正親の次男酒井忠利は、
別家として大名となり老中にもなっており、
田中藩、川越藩を経て入封しました。
墓所は国許の空印寺の他、
江戸牛込の下屋敷内の長安寺境内にあり、
長安寺は廃藩後に廃寺となり、
墓所のみが残されていたのですが、
関東大震災後の区画整理で空印寺に移され、
歴代全ての藩主の墓碑が集められています。
右端から、
「建康大居士(家祖酒井忠利)」、
「空印寺殿傑傳長英大居士/初代酒井忠勝」、
「勇嚴院殿獨立空山大居士/2代酒井忠直」、
「高壹院殿指厳道徽大居士/3代酒井忠隆」、
「宝䙛院殿菎山道琳大居士/4代酒井忠囿」、
「霊苗院殿曇華道瑞大居士/5代酒井忠音」。
墓所の奥に並ぶ藩政前半の藩主の墓碑。
家祖忠利、初代忠勝、5代忠音は、
老中の経験者で、
特に忠勝は大老にも就任しています。
右奥から、
「實相院殿諦覚圓成大居士/6代酒井忠存」、
「霊岳院殿大機道乗大居士/7代酒井忠用」、
「本覺院殿寂應道寛大居士/9代酒井忠貫」。
左側に並ぶ墓碑は6、7、9代藩主のもの。
「樹徳院殿康山成功大居士/9代酒井忠與」。
一人だけ離れている8代酒井忠與の墓碑。
左奥から、
「寛隆院殿仁峯良義大居士/10代酒井忠進」、
「天性院殿霊雄道智大居士/11代酒井忠順」、
「桓盛院殿賢質英量大居士/13代酒井忠氏」。
右に並ぶ10、11、13代の墓碑。
10代酒井忠進は老中経験者。
13代酒井忠氏は文久2年に藩主に就任。
幕末期に譜代大名として幕府を補佐し、
鳥羽伏見の戦いも旧幕軍として戦いました。
一通り墓所を見て廻っても、
12代及び14代酒井忠義の墓碑が無い。
たぶん酒井家之墓に合葬してるのでしょう。
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