山口県山口市 吉富家墓所

吉富家は吉敷郡矢原村豪農で、
当主は代々庄屋大庄屋を務めています。
幕末の当主吉富藤兵衛井上聞多と旧知で、
農民ながら尊皇攘夷思想に関心を持ち、
下関攘夷戦の際には長州藩に資金を提供。
藩が八月十八日の政変以降、
禁門の変下関戦争で惨敗を喫し、
これに責任を感じた周布政之助は、
厄介になっていた吉富家で自刃しており、
吉富家の墓がある船田墓地に埋葬されました。
山口県山口市 周布政之助墓所

今回はその舩田墓地に再訪し、
吉富家の墓所に参りました。

吉富家墓所」。
周布の顕彰碑から墓地へ入った辺りに、
吉富家の墓碑が並んでいます。
大きな墓石は吉富家先祖の合葬墓で、
明治43年に建立されたもの。
周辺には一族の墓も多く見受けられました。
吉富家は苗字帯刀を許されていた豪農で、
約26町歩(約26ha)の田畑を有し、
年3000俵もの収入があったという。
その裕福な暮らしぶりは反感を買う事もあり、
一揆の際には攻撃対象にもなっています。


正五位吉富簡一墓」。
吉富簡一(藤兵衛)の墓。
藤兵衛の幼名は美之助と云い、
安政元年に家督を継いで当主となった際に、
吉富藤兵衛に改めました。
祖父が開いた郷校講習堂儒学を学び、
そこで井上も学んでいたことから、
交友関係を築いたとされています。
高杉晋作がクーデターを起こした際には、
資金を提供するだけでなく、
自ら鴻城軍を組織して諸隊軍に加わり、
旧知の井上を総督に担ぎました。
幕長戦争でも芸州口で戦いますが、
豪農故に遠方へ出る事は出来ず、
戊辰戦争には不参加。
奇兵隊脱隊騒動では政府側に与し、
鎮圧に来た木戸孝允に協力しています。
その後は木戸に誘われ政府に出仕しますが、
辞職して先収会社大阪支店頭取に就任。
明治9年の先収会社解散まで務めました。
後に山口に帰国して初代県会議長を務め、
自由民権運動を抑えて長州閥を支え、
明治23年には衆議院議員に当選。
大正3年に死去しています。

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