第一次長州征伐で長州藩は窮地となり、
これによって俗論党政権が誕生すると、
周布政之助は罷免されてしまいます。
その頃周布は吉富家に滞在していましたが、
その意気消沈ぶりはすさまじく、
何度も自裁を口にしていたという。
吉富家の主人吉富藤兵衛(簡一)は、
周布が早まらないように注意し、
刃物を隠したり監視したりしていましたが、
周布は隠し持った短刀で自刃。
吉富家の墓地に埋葬されました。
「嗚呼長藩柱石周布政之助君碑」。
昭和6年建立の周布政之助の顕彰碑。
書は毛利宗家当主毛利元昭によるもの。
碑のある場所の隣にある船田墓地に、
自刃した周布は埋葬されました。
「麻田公輔墓」。
周布の変名麻田公輔と刻まれた墓碑。
高杉晋作ら長州藩過激派は、
横浜で外国人襲撃を計画しますが、
これが武市半平太から山内容堂へ漏れ、
容堂が世子毛利定広へ報告します。
驚いた定広は晋作らを呼び寄せ、
計画を中止するように説得。
彼らは謝罪して計画は中止されました。
その後に駆け付けた周布を交え、
酒宴が催されていましたが、
周布はいささか飲み過ぎてしまったようで、
酒宴が終わって帰ろうとしたところ、
様子を見に来た土佐藩士らが居た為、
容堂を侮辱する発言をしてしまい、
これに土佐藩士らは激怒しますが、
他の者がなんとかなだめて帰し、
翌日に定広が土佐藩邸に自ら出向いて、
謝罪する事となっています。
土佐藩には周布は切腹して死んだとし、
謹慎のうえ改名するように命じ、
以降は麻田公輔と名乗ったという。
この様に酒癖が悪かったようで、
他にも酔って野山獄に乱入する等、
酒により数度の過ちを犯していますが、
優秀な改革派の重臣として活躍した他、
晋作ら若い藩士の理解者でもありました。
しかし八月十八日の政変、禁門の変、
下関戦争、第一次長州征伐と、
藩を危機に晒した事に責任を感じ、
吉富家の裏庭で自刃しています。
遺骨は後に長門に改葬されており、
墓石だけがここに残されました。
その長門の墓の他にも、
萩の東光寺や東京の青山霊園に、
周布政之助の墓がありますが、
名乗っていた麻田公輔と刻んだ墓は、
ここだけのようです。
■関連記事■
・山口県長門市 周布政之助墓所
長門市三隅にある周布政之助の墓。
・山口県萩市 東光寺/四大夫十一烈士墓所
東光寺にある周布の招魂墓。
・山口県長門市 烈婦登波之墓
周布が称賛した烈婦登波の墓。