長門市の広域農道みのりロード脇の墓地に、
烈婦登波の墓があります。
妹の夫枯木龍之進に家族を殺され、
これを追って15年も仇を探し続け、
ようやく豊前で発見します。
そして奉行所に仇討ちを願いますが、
これに龍之進は進退尽きて自害。
仇を討ち取る事は出来ませんでしたが、
この一件を聞いた周布政之助は、
心意気が天晴れであると賞賛。
登波のこの偉業を石碑にしたいと、
吉田松陰に依頼しています。
「烈婦登波之墓」。
登波は仇討ちが終わった後は、
久富で余生を過ごしたようで、
農業で生計を立てていたとのこと。
周布の依頼で登波を知った松陰は、
非常に感銘を受けたようで、
実際に登波に会いに行っており、
仇討ちや追跡行の話を聞いています。
石碑の話は周布が大津代官を勤めた当時、
領内の偉業として碑にしようとしたもので、
後に周布が大津代官を免じられた為、
うやむやになってしまいましたが、
松陰は書いた碑文を野山獄にも持って行き、
囚人らに登波の話を聞かせたり、
後には松下村塾で紹介したりしたようです、
実際の墓は後側のこの墓の模様。
墓碑銘は風化で読めませんでした。
碑文は長らく忘れ去られていましたが、
大正5年に桂弥一の進言に従って、
地元の名士中山太一が出資し、
滝部八幡宮境内に石碑が建立されました。
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烈婦登波の碑が建てられています。
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