問田益田家は永代家老須佐益田家の分家で、
宗家20代益田元祥の次男益田景祥を祖とし、
周防国吉敷郡問田を本拠としました。
藩内では寄組に属していましたが、
4000石を越える所領を持つ家は、
問田益田家を含め5家のみとのこと。
※他は堅田家、国司家、粟屋家、山内家。
歴代当主は当職や加判役を歴任しており、
長州藩の藩政に大きく関わっています。
「問田益田家墓所」。
大内小京都という新興住宅地から、
東へ下る坂の途中の北側に、
問田益田家墓所への登り口があります。
墓碑銘を確認しましたが、
当主と確認出来た墓は2つだけ。
あとはわかりませんでした。
崩れて積まれた墓石がありますが、
誰の墓かは不明ながら、
初期の当主のように思われます。
初代益田景祥の墓は仁保にあるらしいので、
2代益田就固の墓かもしれませんが、
定かではありません。
問田益田家は初代当主益田景祥以降、
2代益田就固、3代益田就高、
4代益田元方、5代益田就白、
6代益田親愛、7代益田元固、
8代益田孫槌と続いていますが、
この墓所で特定出来たのは2当主のみ。
「本性院殿前著作郎固室道堅大居士」。
5代当主益田就白の墓。
4代益田元方の嫡男益田兼慶の長男で、
父の兼慶が病の為に跡を継がず、
兼慶の弟益田広高が嗣子となりますが、
広高も病を得た為に祖父の養子となり、
嫡孫となって家督を相続したようです。
「淨篤院殿故大夫姫山道映大居士」。
6代当主益田親愛の墓。
5代就白の嫡男として生まれ、
その家督を継いだようです。
家臣らに対し家政の心得を示したり、
家老であった益田市郎右衛門に、
新陰柳生家当流秘伝書を伝授したという。
残念ながら他の当主は特定出来ず。
勇進院殿、寛敬院殿という大居士の墓や、
益田隼七と刻まれた墓がありますが、
よくわかりませんでした。
推測すれば初代が仁保にあって、
2代が上記した崩れた墓、
3代4代が勇進院殿、寛教院殿どちらか、
7代が益田隼七で8代以降が累代墓と、
このようになれば歴代が揃うのですが、
そう都合の良いものではないでしょうね。
※山口市教育委員会に問い合わせたところ、
勇進院殿は益田兼慶(寛政3年没)、
寛敬院殿は益田凞敬(文化10年没)とのこと。
どちらも当主ではありませんでした。
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・山口県萩市 益田家墓所①
宗家である須佐益田家の歴代墓所。
・山口県長門市 大寧寺墓地/益田家墓所
大寧寺にある宗家の墓所。
・島根県浜田市 安国寺/伝 御神本三代の墓
先祖である御神本家の墓所。