萩市須佐 益田家墓所

益田家は長州藩の永代家老家で、
長州の北東端にある須佐を所領としていました。
益田家は鎌倉時代より島根県益田市一円を本拠としていますが、
主家の減封によって代々受け継いできた所領を手放します。

益田の隣である須佐が所領とされたのは偶然?
それとも、いつの日にか本拠を取り戻そうとしていたのか?
とにかく益田家は、江戸時代を通じて須佐の領主でした。

益田家が転封する以前は、一寒村であった須佐でしたが、
益田家20代当主益田元祥が移住してから整備され、
経済的に発展を遂げました。
元祥は自領の発展だけでなく、減封後の藩財政の基礎を作り上げ、
その功績により益田家は、長州藩永代家老となったわけです。

嫁さんの実家が益田市で、正月や盆には益田市に行くのですが、
途中に須佐を通ります。
その度に少しずつ幕末関連史跡に寄ろうと思っていますが、
今回は「益田家墓所」を訪ねてみます。


益田家墓所」は須佐湾が見下ろせる高台にあります。
案内板には「これだけ歴代領主の墓が揃っているのは、
全国的にもめずらしいといわれている
」と記載されていました。


階段を登ると益田家歴代当主の墓が騒然と立ち並ぶ墓所が現れます。


これだけの規模は、藩主家でもそうそう見られません。
墓石の形は五輪墓が主で、梵字ではなく漢字で、
と刻まれています。


墓所から望む須佐湾
これだけのロケーションがある領主の墓所も少ないのでは?
自領が見下ろせる位置を墓所とした事を考えると、
自領に愛着を持って接した領主家だったのではないでしょうか。


三十三代当主益田親施の墓」。
禁門の変の責任を取って切腹した三家老の一人。
親施は吉田松陰とも親しく、郷校の育英館松下村塾の交友も盛んでした。

親施切腹後の家督は、嫡子精次郎精祥)が幼少であったため、
房子の夫となった桂親澄益田親祥として家督を継承するが、
結局、翌年に精次郎が家督を相続することになる。

その際、罪を負った益田の姓を使用することが憚られ、
益田家が昔に使っていた姓である御神本氏を名乗る事となりました。
精祥が由緒ある益田姓を名乗るのは、明治元年になってからだそうです。

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