益田家は長州藩の永代家老家で、
長州領北東端須佐を所領としていました。
益田家は鎌倉時代より、
現在の島根県益田市を本拠としていますが、
関ヶ原の戦いで主家が減封した為、
代々統治した所領を手放しています。
益田の隣須佐が所領とされたのは、
益田を取り戻すつもりだったのか?
それとも単なる偶然?
とにかく益田家は江戸時代を通じ、
須佐の領主となっていました。
益田家が封じられる以前の須佐は、
一寒村であったようですが、
20代当主益田元祥が移住して整備され、
以降は経済的に発展を遂げました。
元祥は自領の発展だけではなく、
減封後の長州藩財政の基礎を作り上げ、
その功績によって益田家は、
長州藩永代家老となったようです。
「益田家墓所入口」。
最初の訪問時はカメラがボロで、
撮った写真も酷いものでしたので、
再訪して記事を修正しました。
以下は令和5年に再訪した際の記事。
「益田家墓所」。
五輪塔が並ぶ益田家歴代当主の墓所。
墓所からは須佐湾が望めました。
自領が見下ろせる位置を墓所としたのは、
須佐に愛着を持っていた証しでしょう。
「桃林院殿前鴻昈全牛紹因大居士覺霊」。
20代(初代)当主益田元祥の墓。
19代益田藤兼の次男として生まれ、
兄の益田広兼が早逝した事で継嗣となり、
毛利家や豊臣家の覇業に貢献。
四国攻め、九州征伐、小田原征伐の他、
文禄、慶長の役でも功を挙げています。
毛利家が関ヶ原の戦いに敗れると、
旧領を離れて長門国阿武郡須佐に移封。
国力の減った毛利家の財政再建に尽くし、
後に益田家は永代家老家となりました。
「慈徳院殿越州前司全渓宗鼎大居士覺霊」。
21代(2代)当主益田元尭の墓。
20代元祥の嫡子益田広兼の長男に生まれ、
父が疱瘡によって病没してしまった為、
祖父である元祥の継嗣に指名されて、
元祥の隠居により家督を相続しました。
24年の在任後に隠居していますが、
島原の乱に出兵して戦費がかさんだ事から、
隠居後も財政再建に尽力していますが、
元尭は2万石を増収を生みだしたという。
「慈光院殿越州前司全明宗昫大居士覺霊」。
22代(3代)当主益田就宣の墓。
21代元尭の嫡男に生まれ、
父の隠居により家督を相続。
2代藩主毛利綱広の娘吉姫が嫁ぐ際、
婚儀御礼使となっています。
家督相続前から弓鉄砲惣将を務めたという。
23~26代当主の墓は見当たらず。説明板が設置されていなかったから、
気が付かなかっただけかも??
※25、26代は須佐の紹孝寺が墓所。
「高徳院殿英翁全権大居士之塔」。
27代(8代)当主益田元道の墓。
26代就賢の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しています。
須佐沖に出没した唐船の打ち払いを行い、
郷校育英館を創建するなどしています。
「大光院殿普澤全照大居士
陽寿院殿春霊良艶禪童子」。
28代(9代)当主益田広尭とその子(?)の墓。
同葬されている童子は実子と思われますが、
このように同葬されるのは珍しいですね。
28代広尭は寄組士益田就高の次男で、
寄組士の繁沢貞雄の養子でしたが、
27代元道に乞われて養子となり、
元道の死去に伴い家督を相続しました。
藩財政の再建に携わりますが、
7代藩主毛利重就により罷免されています。
つづく。
①/②
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