山口県萩市 益田家墓所②

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つづき。


雄嶽院殿快翁全活大居士塔」。
29代(11代)当主益田就祥の墓。
28代益田広尭の嫡男として生まれ、
父の死去により家督を相続。
美濃伊勢の河川普請総奉行を務め、
笠松代官所に出向しました。
逼迫する藩の財政の打開策として、
撫育方の収入を財政に充てる事を進言し、
これが不興を買って逼塞処分となり、
後に隠居させられています。
書画連歌陶芸に堪能であったという。


齢養院殿龍山全英大居士塔」。
30代(12代)当主益田就恭の墓。
29代就祥の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
16年の当主在任後に隠居。


大澤院殿邦潤全休大居士塔」。
31代(13代)当主益田房清の墓。
吉敷毛利家8代毛利就兼の三男に生まれ、
30代就恭の養子となり、
就恭の隠居に伴い家督を相続。
26年の当主在籍後に死去しています。


顕忠院殿貞良全幹大居士塔」。
32代(14代)当主益田元宣の墓。
右田毛利家8代毛利就任の五男に生まれ、
31代房清の婿養子に迎えられて、
房清の死去に伴い家督を相続しました。
13代藩主毛利慶親村田清風を推挙し、
当役に就任して財政改革を進めますが、
反対派の妨害を受けて罷免。
後に当職となって明倫館を再興しています。
嘉永2年、死去。


高正院殿大義全明大居士塔」。
33代(15代)益田親施の墓。
32代元宣の三男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
マシュー・ペリーの艦隊が来航すると、
浦賀表御手当御用総奉行に着任。
尊攘派家老として京都等で活動し、
八月十八日の政変が発生した際は、
七卿を伴い長州へ帰国しました。
元治元年の禁門の変では藩兵を率い、
会津藩薩摩藩と戦いますが敗れ、
福原元僴国司親相と共に、
責任を取って自刃しています。


益田親祥墓」。
34代(16代)当主益田親祥の墓。
吉敷毛利家12代毛利房謙の子で、
33代親施が自刃となった為、
32代元宣の娘壽子と結婚し、
中継ぎとして家督を相続しましたが、
翌年の慶応元年には隠居。
親施の子益田精祥に家督を譲りました。
親施が幕府による咎を受けた為、
益田姓を名乗る事が憚られ、
精祥は益田家の旧姓御神本を名乗りますが、
幕府崩壊後に益田家に復しています。
一度譲られた家督でしたが、
まだ年若い為に改めて親祥に家督を譲り、
成長した明治12年に再度家督を相続。
野田神社豊栄神社の神職を務め、
明治33年に男爵に叙爵されています。
※精祥の墓は取り忘れました。

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