萩市須佐 須佐歴史民俗資料館「みこと館」

須佐は、長州藩永代家老益田家の所領でした。
益田家は島根県益田市周辺を所領としていましたが、
関が原の戦いの後、毛利家が長門・周防の2国に減封された際、
益田氏も須佐に転封になりました。

須佐は文字通りスサノオノミコトと関係深いようですが、
神話の話なのでよくわかりませんが、
益田氏が治めるようになってからは、北前船の寄港地として、
ある程度は栄えていたようです。

2013年7月22日の豪雨災害により須佐は甚大な被害を受けました。
現在は復興が進み、道路や鉄道などもきれいになっています。
今回行った須佐歴史民俗資料館も水没被害を受けていましたが、
今年の4月14日にリニューアルオープンしました。


須佐歴史民俗資料館「みこと館」は、益田氏の貴重な資料や遺品類、
須佐唐津焼についての資料が展示しておりました。
奇兵隊陣羽織河上範三書回天軍連判状など、
幕末関連の展示もあります。
残念ながら館内は撮影禁止でしたので写真は無し。
とはいえ気さくすぎる学芸員さんが、とても丁寧に説明して下さいました。


隣接する屋敷は「益田館(ますだやかた)」。
須佐に移った益田氏は、三宅(島根県益田市)にあった屋敷の別館を、
解体して船で運び移築しました。
ここも水没被害を受けており、現在改修中です。

近くには、益田親施を祀る笠松神社もあります。
益田親施は、禁門の変の責任で自刃した三家老の一人で、
当時の須佐の領主でもありました。
領主の自刃に際し、領内では穏健派と過激派が激しく抗争。
須佐内訌事件と呼ばれる対立事件が起きています。
結果的に藩政府の意向で穏健派が勝利し、
益田家家臣大谷樸助河上範三らが切腹となりました。

しかし、高杉晋作が藩政府を打倒。情勢が変化したことにより立場は逆転。
過激派の幹部の生き残りであった津田常名らが「回天軍」を組織して、
穏健派幹部を須佐から追放。その後は奇兵隊に合流しています。

三家老の切腹と簡単に言いますが、家老にも家臣がいるわけで、
主の死を簡単に受け入れられないのが武士というもの。
一悶着あって当たり前といえば当たり前ですね。

この須佐には他にも、松下村塾と交友があった郷校「育英館跡」や、
益田家墓所」などもありますので、次回は行ってみたいと思います。

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