須佐は長州藩永代家老益田家の所領。
益田家は現在の島根県益田市を所領とし、
代々統治していましたが、
関が原の戦いで毛利家が減封された際、
益田氏も須佐に転封となりました。
須佐の地名は文字通り、
スサノオノミコトと関係深いようですが、
神話の話なのでよくわかりませんが、
益田氏が治めるようになってからは、
北前船の寄港地となっていたようで、
ある程度は栄えていたようです。
2013年の豪雨災害により、
須佐は甚大な被害を受けました。
現在は復興が進んでおり、
道路や鉄道などもきれいになっています。
須佐歴史民俗資料館も水没被害を受け、
長らく閉館していましたが、
4月14日にリニューアルオープンしました。
須佐歴史民俗資料館「みこと館」は、
益田氏の貴重な資料や遺品類、
須佐唐津焼の資料が展示しています。
奇兵隊陣羽織、河上範三書、
回天軍連判状など、
幕末関連の展示もあります。
残念ながら館内は撮影禁止。
とはいえ気さくすぎる学芸員さんが、
とても丁寧に説明して下さいました。
隣接する屋敷は「益田館」。
須佐に移った益田氏は、
三宅(島根県益田市)にあった屋敷の別館を、
解体して船で運びここに移築。
これが現存していましたが、
この館も水没被害を受けており、
現在改修中です。
近くに益田親施を祀る笠松神社もあります。
益田親施は三家老の一人で、
当時の須佐の領主でもありました。
領主の自刃に際し、
領内では穏健派と過激派が激しく抗争。
須佐内訌事件が起きています。
結果的に藩政府の意向で穏健派が勝利し、
大谷樸助、河上範三らが切腹となり、
過激派は退けられました。
しかし間もなく高杉晋作が藩政府を打倒。
情勢が変化したことにより立場は逆転し、
過激派の津田常名らが回天軍を組織して、
穏健派幹部を須佐から追放。
その後は奇兵隊に合流しています。
三家老の切腹と簡単に言いますが、
家老にも家臣がいるわけで、
主の死を受け入れられないのが武士。
一悶着あって当たり前です。
この須佐には他にも、
松下村塾と交友があった郷校育英館跡や、
「益田家墓所」などもありますので、
次回は行ってみたいと思います。
■関連記事■
・山口県萩市 益田家墓所
永代家老益田家の墓所。
・山口県萩市 三蔭山神社
益田家家臣らを招魂する招魂社。
・山口県萩市 育英館跡
現在育英小学校となっています。