医光寺の前身は天台宗寺院の崇観寺で、
南北朝時代の創建とされており、
元々の医光寺はその塔頭であったという。
崇観寺は益田家に庇護されていましたが、
戦国時代の戦火で荒廃してしまい、
後に益田家17代益田宗兼が医光寺を再建。
崇観寺の継承寺院にしたようですが、
宗派は臨済宗に改宗されています。
「総門」。
総門は七尾城の大手門の移築と伝わります。
七尾城は益田家4代益田兼高の築城とされ、
関ヶ原後に益田家が益田を離れた際に廃城。
その際にここに移築されたとのこと。
「中門」。
桟瓦葺切妻造四脚門の中門。
安永8年(1779)の建立です。
「本堂」。
本堂の築年期は不明。
本尊は薬師如来坐像は安阿弥(快慶)の作。
裏手には雪舟の作庭した庭園があり、
国の史跡及び名勝に指定されています。
「山路忠恭先生之碑」。
明治初期の益田市の教育者山路忠恭の碑。
津和野藩の出身で藩校養老館に学び、
森鴎外と成績を争った仲だったという。
医者を志していましたが断念し、
教育者の道に進みました。
邑智郡川本小学校、益田女子技芸学校、
浜田中学校等の校長を務めており、
教職を退いた後は益田に居住し、
石見漢詩壇の指導者として活躍します。
益田市にある蟠龍湖の名付け親とされ、
多くの教え子に慕われていたようで、
この碑は教え子らによって建立されたもの。
「前東福 見崇観後東光 雪舟揚大禅師」。
室町時代の禅僧で水墨画家雪舟の灰塚。
水墨山水画(6点が国宝)で知られた他、
庭園の作庭でも知られており、
各地に築かれた雪舟作と伝わる庭は、
雪舟庭園と呼ばれています。
晩年は15代益田兼堯に招かれており、
東光寺(現大喜庵)住職として死去。
医光寺(当時は崇観寺)にて火葬され、
この塚が建立されたようです。
「越中守宗兼公」。
益田家17代当主益田宗兼の墓。
16代益田貞兼の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しますが、
吉見氏や三隅氏との争いを行う一方で、
守護職大内義興に従って九州へ出兵。
義興と共に上洛して足利義稙を擁立し、
船岡山合戦で戦功を挙げています。
永正15年(1518)には医光寺を再建。
天文13年(1544)に死去しました。
医光寺は益田家が去った後は、
歴代の浜田藩主家に庇護されたようで、
益田戦争では福山藩が本陣としました。
福山藩はここと勝達寺に立てこもり、
積極的な戦いは行っていませんが、
後方の秋葉山から長州藩の攻撃を受け、
医光寺を放棄して敗走しています。
■関連記事■
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幕末の益田で行われた戦い。
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