山口県長門市 大寧寺墓地/益田家墓所

石見益田家の菩提寺のひとつ妙義寺は、
13代益田秀兼大寧寺木叟和尚を招き、
開山させたとされています。
この事から益田家は大寧寺と深く結びつき、
焼失した山門を再建するなど、
大寧寺を篤く信仰していたようです。

大寧寺墓地にある益田家の分骨墓

桃林院殿前右衛門
 佐登告全紹因大居士 覺霊」。
20代(初代)当主益田元祥の墓。
19代益田藤兼の次男として生まれ、
兄の益田広兼が早逝した事で継嗣となり、
毛利家豊臣家の覇業に貢献。
四国攻め九州征伐小田原征伐の他、
文禄、慶長の役でも功を挙げています。
毛利家が関ヶ原の戦いに敗れると、
旧領を離れて長門国阿武郡須佐に移封。
国力の減った毛利家の財政再建に尽くし、
後に益田家は永代家老家となりました。


慈徳院殿越州前司全〇〇大居士 覺霊」。
21代(2代)当主益田元尭の墓。
20代元祥の嫡子益田広兼の長男に生まれ、
父が疱瘡によって病没してしまった為、
祖父である元祥の継嗣に指名されて、
元祥の隠居により家督を相続しました。
24年の在任後に隠居していますが、
島原の乱に出兵して戦費がかさんだ事から、
隠居後も財政再建に尽力していますが、
元尭は2万石を増収を生みだしたという。
また焼失した山門を再建しています。


慈光院殿越州前司
 全明宗昫大居士 覺霊(左)」、
龍興院殿悟峯全桃居士 覺霊(中) 」、
俊源院殿窕陰自春大姉 覺霊(右)」
22代(3代)当主益田就宣
23代(4代)当主益田兼長
22代当主就宣の正室の墓。
22代就宣は21代元尭の嫡男に生まれ、
父の隠居により家督を相続。
2代藩主毛利綱広の娘吉姫が嫁ぐ際、
婚儀御礼使となっていますが、
かつては吉姫の墓もあったようですが、
これは就宣が建てたものかもしれません。
23代兼長は22代益田就宣の四男で、
父の死去により家督を相続しました。
24代(5代)益田久之丞福原就恒の五男。
8歳で夭折した為か墓碑が見当たりません。
初めから無いのか失われたのかは不明。
特定されてない墓碑の可能性もあります。


江雲院殿前越州史全峯結孝大居士(右)」、
青淨院殿玉峰琳秀大姉 淑霊(右)」。
25代(6代)益田就恒とその室の墓。
益田家墓所は墓地の入口にありますが、
この就恒夫妻の墓は墓地の上側にあります。
25代就恒は21代元尭の五男に生まれ、
福原元俊の養子となっていましたが、
五男で益田家を継いだ久之丞が夭折した為、
益田家の家督を相続しました。
9年の当主在任の後に死去。


〇光院殿全彰結〇大居士 覺霊」。
26代(7代)益田就賢の墓。
分家の寄組士益田就武の三男として生まれ、
25代就恒の養子となり、
養父就恒の死去に伴い家督を相続。
17年の在任で病を理由に隠居しました。


高徳院殿英翁全権大居士」。
27代(8代)益田元道の墓。
26代就賢の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しています。
須佐沖に出没した唐船の打ち払い、
※記事はこちら
郷校育英館を創建するなどしています。


天澤院殿邦潤全休大居士(右)」、
大光院殿普澤全照大居士(左)」。
28代(9代)益田広尭
31代(13代)益田房清の墓。
28代広尭は寄組士益田就高の次男で、
寄組士繁沢貞雄の養子となりましたが、
27代元道に乞われて益田家の継嗣となり、
養父元道の死去に伴い家督を相続しました。
藩財政の再建に携わりますが、
7代藩主毛利重就により罷免されています。
31代房清は吉敷毛利8代毛利就兼の子で、
30代就恭の養子となって家督を相続。
26年の在任後に36歳で死去しました。


雄誉院殿快翁全活大居士之塔」。
29代(11代)益田就祥の墓。
他とは違い石段の向かい側にあります。
28代広尭の嫡男として生まれ、
父の死去により家督を相続しました。
逼迫する藩の財政の打開策として、
撫育方の収入を財政に充てる事を進言し、
これが不興を買って逼塞処分となり、
後に隠居させられています。
30代益田就恭の墓は不明。
彼の墓が無い理由がありませんので、
墓碑銘の風化で断定できないのか、
災害で倒壊したのかどちらかの筈です。
就恭は29代就祥の嫡男に生まれ、
父が藩主に隠居させられた為に家督を相続。
16年の当主在任後に隠居しました。


顕忠院殿貞全幹大居士
 〇〇院殿緋忠全義大居士
 高正院殿大義全明大居士
」。
32代(14代)益田元宣と嫡男益田親興
33代(15代)益田右衛門介親施の合葬墓。
32代元宣は右田毛利8代毛利就任の子で、
従兄弟である31代房清の婿養子となり、
養父の死去に伴い家督を相続します。
藩主毛利慶親村田清風を推挙しており、
清風と共に藩政改革を断行。
一定の成果を挙げていますが、
反対派の妨害を受けたようで、
清風と共に罷免されました。
後に財政が悪化すると再度登用されますが、
再びの改革には成功していません。
33代親施は三家老のひとり。
32代元宣の三男として生まれ、
兄親興の早逝で継嗣となって家督を相続。
尊攘派の家老として志士らに慕われますが、
禁門の変福原元僴国司親相と出陣し、
長州軍の指揮して戦いますが惨敗。
責任を取る形で切腹しています。
これにより益田家は一時断絶し、
実子の精次郎御神本姓を名乗りますが、
維新後に許されて益田家は再興。
維新の功積により男爵となりました。

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