山口県長門市 大寧寺

大寧寺湯本温泉ある曹洞宗の寺院。
本山總持寺の直末寺として高い寺格を持ち、
守護大名大内家の菩提寺でありました。
戦国時代の当主である大内義隆は、
家臣の陶隆房が挙兵して謀反を起し、
この寺の本堂で自刃した事でも有名です。
陶軍の攻撃により寺院は焼失していますが、
その後は毛利家の庇護を受け再建しました。


本堂」。
再建された本堂は寛永17年(1640)に、
再び野火によって焼失。
その際に焼け残っていた寄宿寮が、
現在の本堂となったようです。
山口県下では最大の仏教寺院本堂。


姿見の池」及び、
かぶと掛けの岩」。
義隆は晴賢に追われ大寧寺に逃れる際、
境内に入る前に髪を整えようと、
参道脇にあった岩に兜を掛けて、
この池で顔を映そうとしたという。
しかし水面に映るはずの自分の姿が映らず、
自分の運命を悟りました。


大寧寺墓地」。
長州藩重臣達の墓が一か所に集まる墓所。
かつてはこの墓地の頂上部に、
毛利元就第三継窒(東の大方、中の丸)、
毛利秀就長女(登佐姫)、
毛利綱広長女(吉姫)の墓があったことから、
重臣達が分骨して墓を建てたようです。
急な斜面に並ぶ墓石には、
山内家国司家児玉家榎本家乃美家
宍戸家堅田家和智家大和家天野家
李家家志道家飯田家桂家赤川家etc・・


萩藩永代家老 須佐益田家
 三十二代益田玄蕃元宣
 益田越中守親興
 三十三代益田右衛門介親施」。
須佐益田家もここに分骨墓を建てています。
特に益田家は信仰篤かったようで、
19代当主益田藤兼山門を寄進しており、
その後は焼失していますが、
孫で21代の益田元尭が再建しました。
※山門は明治期の再び焼失しています。
この墓は32代益田元宣と長男益田親興
33代を継いだ三男の益田親施の合同墓。
親施は三家老のひとりですね。
幕末の人物はこのくらいかな??


経蔵跡」。
墓地の中腹あたりにある経蔵の跡。
大内義隆の重臣冷泉隆豊は、
義隆の介錯を務めた後も最後まで奮戦し、
ここにあった経蔵に火をつけて自刃。
内臓を天井に投げつけて果てたという。

さらに上へ登って義隆主従の墓所へ。

大内義隆主従之墓所」。
大内義隆父子と家臣冷泉隆豊、黒川隆像
岡部隆景天野隆良大田隆通岡屋隆秀
祢宣民部らの墓。
謀反を起した陶隆房(晴賢)は武断派家臣で、
義隆が重用する文治派と対立し、
やがて義隆とも不仲となります。
そして隆房は義隆の本拠地山口に攻め込み、
不意を突かれた義隆は長門に逃げて、
仙崎から海路で石見に渡ろうとしますが、
海が荒れていた為に大寧寺に入りました。
隆房勢は大寧寺を取り囲んだ為、
義隆主従は進退窮まり自刃。
冷泉ら重臣は義隆の死を見届けた後に、
奮戦して討死しています。


右から、
二条尹房公墓」「二条良豊卿墓
三条公頼公墓」「持明院基規卿墓」。
大内家は京都との関係が深く、
公卿らを客人として招いていました。
関白を務めた二条尹房と子の二条良豊親子、
正三位権中納言持明院基規
そして武田信玄の継室三条の方の父で、
左大臣右大臣を務めた三条公頼は、
この謀反に巻き込まれて殺害されます。
七卿落ちで長州に下向した三条実美は、
大寧寺を訪れて自らの先祖の墓に参拝。
45世簀雲泰成と親交を厚くしたとされ、
後に簀雲は豊川稲荷妙厳寺に出奔しますが、
妙厳寺が排仏毀釈で窮地に陥った際には、
その存続を政府に働きかけており、
三条実美との縁が大きく働いたとされます。


長門豊川稲荷禅宮」。
上記の縁により境内に勧請された稲荷
御神体は叱枳尼眞天という仏教の天女で、
仏法の興隆護持、国土の災禍を除き、
民衆の福徳を成就させるとされ、
白いキツネに乗って空を走るという。
神社ではなく禅宮となっています。


大寧寺は紅葉の名所。
特に大寧寺川沿いは美しかったです。

※2021.11.22再訪して写真及び記事変更。

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