妙義寺は益田市にある曹洞宗の寺院で、
文永年間(1264-1275)の創建とされ、
始めは臨済宗の寺院であったという。
応永元年(1394)に益田家13代益田秀兼が、
寺領370余石を寄進し曹洞宗に改宗。
弘治年間(1555-1558)には19代益田藤兼が、
大寧寺14世繁興存栄和尚を勧請し、
末寺22ヶ寺を加えて隆興させています。
「山門」。
立派な山門ですが創建時期は不明。
「益田越中守兼堯公像」。
山門前の向かいにある益田兼堯の像。
兼堯は益田家15代当主で中興の英主とされ、
この像は平成4年に建立されたもの。
「本堂」。
本堂には本尊の釈迦牟尼佛の他に、
平安時代に作られた十一面観音像と、
千体地蔵尊が安置されているようです。
慶応2年の益田戦争(石州戦争)では、
大村益次郎率いる長州藩が本陣とし、
野戦病院も置かれました。
妙義寺の墓地は乃木霊園と称され、
益田高等学校の裏手にあります。
右から、
「乃木大将墓参記念松」碑、
「長藩乃木三蔵考高墓」、
「長藩児玉光之進正功墓」、
「長藩入江彦次郎卓松墓」、
「長藩高橋藤四郎信忠墓」。
乃木霊園奥にある益田戦争の戦死者の墓。
このうちの乃木三蔵は大組士で、
乃木希典の叔父又は従兄弟でした。
後に希典が参拝しにきたようで、
その際に松が植えられていますが、
これは枯れてしまったようです。
妙義寺山門から東へ向かい、
突き当りの三叉路を南へ。
脇浦農場の奥に19代藤兼の墓があります。
「益田藤兼の墓」。
益田家19代当主益田藤兼の墓。
18代益田伊兼の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しますが、
20年以上父に後見されています。
守護職の大内家に仕えていましたが、
陶晴賢の謀反に協力しており、
晴賢が厳島の戦いで敗れると、
毛利家の攻勢に備えて七尾城を改修。
後に吉川元春の執り成しで毛利家に降り、
以後は主要な毛利家の戦いに参加しました。
彼の子が須佐益田家初代益田元祥。
晩年は曹洞宗に帰依しており、
荒廃していた妙義寺を再興しています。
■関連記事■
・島根県益田市 妙義寺/乃木三蔵之墓
以前に訪問した際の記事。
・島根県益田市 萬福寺(再訪)
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山陰街道の宿場町。
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