東光寺の大雄宝殿裏側奥は毛利家墓所で、
その手前には四家老の墓所と、
元治甲子殉難烈士の墓所があります。
彼らは元治元年の第一次長州征伐の際に、
藩内で主導権を握った俗論党により、
切腹したり斬首された藩士達でした。
これらは杉孫七郎や杉民治らが斡施し
明治22年10月に造営されたもので、
四大夫、四参謀、七政務員の遺品を埋め、
それぞれ招魂墓が建てられています。
後に周布政之助や明木権現原三士も、
同様に招魂墓も建立されており、
更に台湾で殺された楫取道明の墓も、
同地に建てられました。
「四大夫(家老)及び周布政之助の墓」。
手前より、
「贈正四位周布政之助藤原兼翼招魂墓」、
「贈正四位清水清太郎親知招魂墓」、
「贈正四位国司信濃藤原親相招魂墓」、
「贈正四位福原越後大江元僴招魂墓」、
「贈正四位益田右衛門介藤原親施招魂墓」。
周布政之助、清水清太郎、国司信濃、
福原越後、益田右衛門介らの招魂墓。
周布は村田清風の路線を継承し、
政務座役となって藩政改革を主導。
また藩内の志士を支援する等して、
尊攘派の重臣として活躍しましたが、
禁門の変、第一次長州征伐等の藩の危機に、
責任を取るかたちで自刃しました。
清水清太郎は寄組清水家の当主で、
改革派の家老として藩内外で活躍。
禁門の変後の俗論党の台頭によって失脚し、
高杉晋作の挙兵に伴う報復として、
藩命によって賜死させられています。
国司信濃、福原越後、益田右衛門は、
禁門の変で京都に出兵。
その責を問われて征長軍に首級を要求され、
国司及び益田は徳山、福原は岩国で自刃し、
その首級が征長軍本営に送られました。
以下は元治甲子殉難十一烈士。
手前より、
「贈正四位毛利登人武招魂墓」、
「贈正四位大和國之助直利招魂墓」、
「贈正四位宍戸左馬之助真澂招魂墓」、
「贈正四位前田孫右衛門利済招魂墓」。
毛利登人、大和國之助、宍戸左馬之助、
前田孫右衛門らの招魂墓。
手前より、
「贈正四位渡邊内蔵太暢招魂墓」、
「贈正四位山田亦介公章招魂墓」、
「贈正四位竹内正兵衛勝愛招魂墓」、
「贈正四位楢崎彌八郎清義招魂墓」、
「贈正四位中村九郎清旭招魂墓」、
「贈正四位佐久間佐兵衛義済招魂墓」、
「贈正四位松島剛蔵久誠招魂墓」。
渡邊内蔵太、山田亦介、竹内正兵衛、
楢崎彌八郎、中村九郎、佐久間佐兵衛、
松島剛蔵らの招魂墓。
元治甲子殉難十一烈士は四参謀と、
七政務員の総称ですが、
その括りで分けられてはいません。
四参謀は宍戸、竹内、中村、佐久間で、
毛利、大和、前田、渡邊、山田、楢崎が、
七政務員でした。
これらと別に内訌戦で犠牲となった3名。
彼らは内訌の停戦に動いた鎮静会議員で、
藩政府と諸隊の和平交渉に動きましたが、
この動きに反対する一部の政府軍士により、
明木の権現原で暗殺されました。
「明木権現原三士の墓」。
手前より、
「贈正五位櫻井三木三知章招魂墓」、
「贈正五位香川半助景真招魂墓」
「贈正五位冷泉五郎綏豊招魂墓」。
香川半介、桜井三木三、冷泉五郎の招魂墓。
彼らと江木清治郎は山口の諸隊陣営に赴き、
大田絵堂の戦いで勝利した諸隊勢が、
萩城下への進軍をしないように交渉。
この動きをよく思わない政府軍士が、
萩へ帰る途中の4人を襲撃しました。
3人は殺害されて江木も深手を負いますが、
江木はなんとか逃げ仰せたようです。
四家老の招魂墓の裏手には、
台湾で殺された楫取道明の墓も。
「六氏先生之碑(右)」、
「楫取道明遺骨碑(中央)」、
「故正五位楫取道明遺骨墓(左)」。
六氏先生は台湾の芝山巌学堂の教師達で、
治安が悪化する中でも教育に尽くし、
抗日の匪賊に惨殺された6人の教師です。
この中の楫取道明は楫取素彦の次子で、
久坂玄瑞の養子久坂粂次郎のこと。
遺骨が台湾から故郷の萩に戻され、
ここに埋葬されたようです。
■関連記事■
・山口県萩市 東光寺/長州藩毛利家墓所(再訪)
長州藩毛利宗家の奇数代墓所。
・山口県萩市 東光寺/長州藩毛利家墓所
東光寺への初訪問の記事。
・山口県周南市 三家老幽閉之地
市内にある三家老の幽閉地。