禁門の変の敗戦後、
指揮を取った三家老は自領で謹慎。
その後第一次長州征伐での降伏条件として、
三家老の切腹、四参謀の斬首が要求され、
当時の俗論党政府はこれを受け入れた為、
三家老は徳山藩に預けられます。
国司親相は澄泉寺、益田親施は惣持院、
福原元僴は徳山藩士衣笠伊織宅と、
3人はそれぞれ別の場所に幽閉されました。
周南市徳山周辺(三家老幽閉地の場所)
古川薫著[野山獄相聞抄]には、
[見事な御最期]という短編があり、
その時の様子が描かれています。
もちろん小説なので創作なのですが、
三家老の心情を想像するには、
とても良い作品だと思います。
国司親相は禁門の変で天龍寺に布陣。
来嶋又兵衛らと共に西側から京に入り、
中立売から蛤御門を攻めました。
「国司親相幽閉賜剣之地」。
大成寺参道脇にある御弓丁公園に、
国司が幽閉された事を示す石碑があります。
国司は澄泉寺は幽閉されており、
元治元年11月12日に切腹しました。
※澄泉寺は明治4年に廃寺。
寺は100m程西にあったとされ、
開発の為にここに碑を移設したようです。
※朝銀西信用組合徳山支店あたり。
益田親施は禁門の変で山崎に布陣。
後陣として待機していましたが、
先鋒が敗れた為に戦には参加していません。
「益田親施幽閉賜剣之地」
毛利町のモウリマンションの一角に、
益田が幽閉された事を示す碑があります。
やや東寄りの位置にかつて惣持院があり、
益田はそこで幽閉されて切腹しました。
※惣持院も明治4年に廃寺。
福原元僴は禁門の変で伏見に布陣。
大垣藩や会津藩、新撰組と戦い、
激戦の末に自らも負傷しています。
「福原元僴幽閉之地」。
石碑は周南市立中央図書館前付近。
この辺りに衣笠伊織宅がありました。
福原は徳山藩主の血を引いていた為、
※8代毛利広鎮の六男で9代毛利元蕃の兄。
領内で切腹させるのは忍びないと、
岩国領に送られ龍護寺で切腹しました。
※国司と益田の碑は幽閉賜剣之地で、
福原の碑は幽閉之地になっています。
禁門の変は三家老独断とされた為、
長州藩及び藩主に非が及ぶ事は無くなり、
第一次長州征伐は回避されます。
三人の死が長州を救ったといえるでしょう。
しかしながら小期間ながら三家は断絶。
体面上主に逆らった家という事になる為、
福原、益田、国司を名乗ることができす、
名誉回復は幕長戦争の勝利後となるまで、
三家は待たねばなりませんでした。
■関連記事■
・広島県広島市 国泰寺跡
三家老の首実験が行われた幕軍本営跡。
・萩市 東光寺
三家老の墓碑もあります。
・「野山獄相聞抄」古川薫
三家老の最後が描かれています。