台場跡の館鼻公園内に墓地があり、
元斗南藩士蒲生誠一郎と、
その妻の優子の墓があります。
「蒲生家之墓」。
元斗南藩士蒲生誠一郎と妻の優子の墓。
蒲生誠一郎は旧名山浦鉄四郎。
若松城籠城1日目で負傷してしまい、
主に城内で守備を担当しました。
会津藩が新選組に派遣した藩士の一人で、
八番隊組長藤堂平助と親しかったという。
会津藩が斗南に転封された際に、
蒲生誠一郎と改名して中野優子と結婚。
廃藩後は八戸で海産商や駄菓子屋を営み、
明治10年頃に函館に移住し、
明治12年に死去しています。
中野(蒲生)優子は中野平内忠順の娘で、
壮絶な戦死を遂げた中野竹子の妹。
姉と共に評判の美人であったという。
母の孝子や竹子が婦女隊を結成した際、
最年少で美人の優子が敵に捕まり、
敵から辱めを受ける事を不憫に思い、
寝ている優子を殺そうとしますが、
娘子隊の一員である依田菊子が止めに入り、
一緒に戦って死のうとなったとされます。
涙橋の戦いで竹子が戦死すると、
優子は竹子の首を白羽二重に包んで回収し、
孝子や娘子隊と共に若松城に入場しました。
斗南転封の際に同藩士蒲生誠一郎と結婚。
廃藩後に夫と共に海産商や駄菓子屋を営み、
明治10年頃に函館に移住しています。
夫の死後は女手ひとつで3人の子を育て、
昭和6年に72歳で函館で死去しました。
函館で死去し夫婦の墓が八戸にあるのは、
墓碑に2人の名が刻まれている事から、
縁のある八戸の人物が引き取って、
ここに2人の墓を建立したものでしょう。
■関連記事■
・東京都台東区 長明寺/平田蝶子の墓
婦女隊に所属した平田小蝶の墓。
・青森県むつ市 斗南藩史跡①
極寒の地で藩経営は困難を極めたという。

中野竹子と優子の姉妹は悲しい運命のなかで優子さんは生きて寒い斗南藩として後世を立派に3人のお子さんを育てて生きてこられたご苦労を考えますと同じ日本の中で争い事をした当時の新政府軍の柔軟な考えと人の命を大事することができていたらと思います。中野姉妹は優秀な方でしたので悲劇がなかったら二人で素晴らしい人生を送ることができたと思います。
コメントありがとうございます。
婦女隊の皆は幼い優子を不憫に思い、
いっそ殺してしまおうとしています。
つまり捕らえられれば辱めを受ける前提で、
皆が既に覚悟を決めていたのでしょう。
幸いというには語弊がありますが、
優子は婦女隊の皆に守られて生き延び、
夫や3人の子供に恵まれて一生を全うしました。
優子の幸せは竹子を含む婦女隊の願いであり、
彼女達の希望でもあった事でしょう。