館鼻は八戸から出航する廻船や漁船の為に、
天候や風向、潮の様子をみる場所で、
八戸藩の川口奉行所近くにあった丘陵。
安政元年に海岸防備の為に台場が造営され、
大砲が設置されていたそうです。
「館鼻公園」。
現在は館鼻公園として整備されており、
展望タワーや体験学習館、
そして遊具や遊歩道が設置され、
市民の憩いの場として利用されています。
碑や銅像もあるのですが、
どれも幕末維新には関係ありませんでした。
残念ながら館鼻台場の遺構は皆無。
館鼻公園から望む八戸港。
青森県最大規模の港湾で、
宮城県塩釜港の次ぐ貿易港であると共に、
全国屈指の水揚を誇る八戸漁港を有します。
この公園内に御前神社神葬祭墓地があり、
元斗南藩士蒲生誠一郎と、
その妻の優子の墓があります。
「蒲生家之墓」。
元斗南藩士蒲生誠一郎と妻の優子の墓。
蒲生誠一郎は旧名山浦鉄四郎。
若松城籠城1日目で負傷してしまい、
主に城内で守備を担当しました。
会津藩が新選組に派遣した藩士の一人で、
八番隊組長藤堂平助と親しかったという。
会津藩が斗南に転封された際に、
蒲生誠一郎と改名して中野優子と結婚。
廃藩後は八戸で海産商や駄菓子屋を営み、
明治10年頃に函館に移住し、
明治12年に死去しています。
中野(蒲生)優子は中野平内忠順の娘で、
壮絶な戦死を遂げた中野竹子の妹。
姉と共に評判の美人であったという。
母の孝子や竹子が婦女隊を結成した際、
最年少で美人の優子が敵に捕まり、
敵から辱めを受ける事を不憫に思い、
寝ている優子を殺そうとしますが、
娘子隊の一員である依田菊子が止めに入り、
一緒に戦って死のうとなったとされます。
涙橋の戦いで竹子が戦死すると、
優子は竹子の首を白羽二重に包んで回収し、
孝子や娘子隊と共に若松城に入場しました。
斗南転封の際に同藩士蒲生誠一郎と結婚。
廃藩後に夫と共に海産商や駄菓子屋を営み、
明治10年頃に函館に移住しています。
夫の死後は女手ひとつで3人の子を育て、
昭和6年に72歳で函館で死去しました。
函館で死去し夫婦の墓が八戸にあるのは、
墓碑に2人の名が刻まれている事から、
縁のある八戸の人物が引き取って、
ここに2人の墓を建立したものでしょう。
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