花巻城は一国一城令の例外的に、
盛岡藩の支城として存在した城。
このような支城は仙台藩の白石城、
久保田藩の横手城と大館城、
会津藩の猪苗代城、庄内藩の亀ヶ崎城、
加賀藩の小松城、徳島藩の洲本城、
鳥取藩の米子城、熊本藩の八代城等、
大藩に多数存在します。
「時鐘」。
花巻城大手門跡の脇にある鐘楼。
かつて盛岡城の時鐘でしたが、
破損した為に鋳直されて、
その後に花巻城で再利用されたもの。
時鐘より西へ進み鳥谷崎神社へ。
「圓城寺門」。
花巻城の搦手門が移築されたもの。
二子城の追手門だったものを、
円城寺坂に移築。
花巻城唯一の現存建物です。
「鳥谷崎神社」。
稗貫家の城主時代より、
花巻城内に鎮座する神社。
花巻城が南部家の所有となってからも、
引き続き庇護されたようです。
北上して武徳殿へ。
「武徳殿」。
武徳殿やグランドのある辺りが二ノ丸跡で、
郡代屋敷などが建てられていました。
「鶴陰碑」。
武徳殿前にある碑で、
江戸中期~明治初期の諸士を顕彰する碑。
儒学、兵学、武技、書画、和歌、俳鍇など、
各分野の194人の名が刻まれています。
新渡戸家や太田家等諸士の名が散見。
「佐藤翁碑」。
盛岡藩士佐藤昌蔵の顕彰碑。
日本初の農学博士佐藤昌介が、
父の功積を顕彰する為に建立したもの。
昌蔵は勤皇派であったようですが、
藩が奥羽越列藩同盟に加入すると、
潔く藩の為に新政府軍と戦いました。
戦後は岩手や茨木の郡長を歴任し、
明治23年に衆議院議員に当選しており。
盛岡出身の総理大臣原敬らと共に活躍。
大正4年に死去しました。
「鐘搗堂前御堀」
二ノ丸と本丸を隔てる水堀。
その幅は約20mもあるようで、
状態良く残っています。
「本丸跡」。
かつて本丸御殿があった本丸跡。
江戸期には二ノ丸の郡代屋敷が郡政を担い、
本丸には何もなかったようです。
「西御門」。
復元された櫓門で本丸正門だったようです。
花巻城創建は平安時代の前九年の役の際で、
安倍頼時の城柵があった場所だったとか、
後三年の役の清原武則の城柵だったとか、
色々と諸説あるようです。
後に稗貫家が本拠(鳥谷ヶ崎城)としますが、
当主稗貫広忠が小田原征伐に不参加した為、
豊臣秀吉に所領を没収されています。
没収後は浅野長政が入城していますが、
長政の帰洛中に広忠が和賀義忠と共に、
一揆勢を率いて鳥谷ヶ崎城を奪還。
これらの奥州の反乱に業を煮やした秀吉は、
奥州征討軍を派遣して一揆を鎮圧し、
瞬く間に鳥谷ヶ崎城は落城しました。
後に鳥谷ヶ崎周辺は南部家の所領となり、
南部家家臣北秀愛が城主として派遣され、
鳥谷ヶ崎城は花巻城と改められました。
関ケ原の前哨戦慶長出羽合戦が起こると、
和賀義忠の遺児和賀忠親が蜂起し、
一揆勢を率いて花巻城を包囲。
城兵が少なく婦女子や農民が奮戦し、
各曲輪は落とされ本丸のみとなりますが、
一揆勢は思わぬ抵抗に攻めあぐね、
援軍の到着によって退却しています。
※花巻城の夜討ち。
以後の花巻城は一国一城令の例外とされ、
盛岡藩の支城として江戸時代を通じて存続。
花巻城代(郡代)の居城となっています。
最後の花巻城代は花輪徳之助。
戊辰戦争時は戦線とは離れていた為、
戦場にはなっていませんでしたが、
廃藩置県に伴い廃城となりました。
■関連記事■
・岩手県盛岡市 盛岡城跡
盛岡藩南部家の居城跡。
・青森県八戸市 八戸城跡
八戸藩南部家の居城跡。
・青森県上北郡七戸町 七戸城跡①/②
盛岡藩支藩七戸藩南部家の居城跡。