元治元年7月19日の禁門の変に敗れ、
福原越後元僴は長州に帰還。
7月23日に朝廷は長州追討の勅命を発し、
これを受けて幕府は征長軍を編成します。
攻撃は諸交渉により猶予されますが、
元僴含む三家老の切腹、四参謀の斬首、
藩主父子の謝罪文提出、五卿の藩外移転、
山口城破棄等の条件が提示。
長州藩内からは異論の声もありましたが、
俗論派の台頭により謝罪恭順が徹底され、
三家老の切腹が決定しました。
「本堂」。
清泰院は3代領主吉川広嘉の継室天長院が、
元禄六年(1693)に創建した日蓮宗寺院。
当時は東の山際にあったようで、
ここには末寺の龍護寺がありました。
後に清泰院に変わったようですが、
その経過はよくわかりません。
「贈正四位福原越後君殉難碑」。
境内にある福原越後の殉難碑。
吉川家14当主吉川元光によって、
大正12年4月28日に建立されたもの。
元僴は徳山藩8代毛利広鎮の六男で、
当時の藩主9代毛利元蕃は異母弟でした。
三家老はそれぞれの領地で謹慎した後、
徳山藩に預けられていますが、
元蕃は三家老の切腹が決定すると、
兄を領内で切腹させるのは忍びないと、
元僴のみを岩国に送ります。
岩国に送られた元僴は龍護寺に入り、
11月12日に切腹。
他の二人は徳山で前日に切腹しており、
3人の首級は集められて広島に送られ、
国泰寺で首実検が行われましたが。
長州藩はこれら尊い犠牲のおかげで、
貴重な時間を稼ぐ事が出来ました。
■関連記事■
・山口県宇部市 宗隣寺/福原家墓所
通常非公開の福原越後の墓所。
・山口県周南市 三家老幽閉之地
三家老が幽閉された徳山。
・山口県宇部市 宇部護国神社
福原越後が祀られる護国神社。