山口県宇部市 宗隣寺/福原家墓所

三家老のひとり福原越後元僴は、
宇部の宗隣寺に葬られていますが、
その墓所は通常非公開となっており、
年1回11月第二日曜日のみ、
墓所の参拝が可能となっています。

11月は仕事が結構忙しく、
気付けば11月第二日曜日が過ぎていたと、
毎年後悔していましたが、
今回やっと訪問する事が出来ました。


宗隣寺庭園」。
宗隣寺には既に訪問済みですが、
山口県宇部市 宗隣寺
11月第二日曜日の訪問は初めて。
この庭園の奥に墓所があります。


福原家墓所(下段)」。
福原家墓所は二段に分かれており、
下段には累代の墓と子女の墓、
25代当主夫妻の墓があります。


福原家墓所(上段)」。
上段には20代、24代当主の墓があり、
他に奥方の墓も並んでいます。


清風齋猗園信誓居士之墓」。
20代当主福原就清の墓。
19代福原広門の嫡男として生まれ、
部屋住みで光格天皇即位祝賀使を務め、
関東諸河川普請手伝では総奉行に就任。
父が現役であった為に当主在任は短く、
当主就任後僅か2年で死去しました。
彼の墓は徳隣寺にもあります。


隆文院殿頤堂全忠大居士
 貞恭院殿壽岳慧光大姉
」。
24代福原元僴と室ミネの墓。
徳山藩8代毛利広鎮の六男に生まれ、
寄組佐世親長の養子となりますが、
藩命で23代福原親俊の養子に変更され、
その家督を相続しました。
当職加判役を歴任して藩主を補佐し、
禁門の変では伏見藩邸に布陣。
元僴は伏見街道を北上していますが、
大垣藩との戦闘で負傷してしまい、
劣勢を挽回出来ぬまま退却して帰国します。
幕府第一次長州征伐を開始すると、
益田親施国司親相と共に責任者となり、
徳山藩に預けられて切腹となりました。
益田及び国司は徳山で果てていますが、
当時の徳山藩主毛利元蕃は実弟で、
兄を徳山で切腹させるのは忍びないと、
岩国の吉川経幹の許に送られ龍護寺で切腹。
首級は広島に送られて首実験の後に戻され、
歴代墓所の徳隣寺ではなく、
自領の宗隣寺に運ばれて埋葬されました。


瑞芳院感應道雄居士
 保壽院貞柗玅全大姉
」。
25代福原良通と室トハの墓。
良通は寄組士粟屋親睦の次男に生まれ、
寄組士国司親通の養子となっていましたが、
藩命で24代元僴の養嗣子となります。
元僴が禁門の変の責任を取って切腹した為、
福原姓を名乗る事を憚られ鈴尾親徳と改称。
慶応元年には干城隊の総督に就任し、
更に加判役も兼務しています。
幕長戦争後の慶応3年に渡英しており、
法律の学ぶと共に外国情勢を日本に伝え、
明治7年に初の法廷弁護士となって帰国。
福原姓に復して司法省に出仕しました。
司法少輔大阪裁判所判事を歴任し、
旧領の宇部では石灰の採掘権を買い戻す等、
宇部市発展の礎を築きましたが、
明治15年に35歳で死去しています。
墓は谷中霊園にあったようですが、
平成14年に宗隣寺に改葬。
後方の墓石は良通とトハの個人の墓石で、
後に合葬墓が建てられた模様です。

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