徳隣寺は萩市江向にある臨済宗の寺院。
広島の高田郡福原村の楞厳寺が前身で、
安芸福原家11代福原貞俊が、
父福原広俊の菩提所として創建しました。
以後12代福原元俊までの墓所でしたが、
主君毛利輝元の移封に伴い山口に移転し、
更に萩の八丁縄手に移った後、
現在地に移転したようです。
承応2年(1653)に徳隣寺と改め、
以後は福原家の菩提寺として隆盛。
明治期に隆景寺と合併したという。
「徳隣寺」。
伽羅は全て江戸期のものが現存。
吉田松陰の叔父竹院昌筠が、
幼少期に修行した寺でもあるようです。
「福原家墓所」。
山門を入って左側が福原家の墓所。
14~23代までの当主と、
その一族の墓21基が立ち並んでいます。
福原家は室町期からの毛利家重臣で、
毛利家4代毛利元春の五男毛利広世が、
大江氏の惣領家長井家の養子となり、
高田郡福原村を所領とした為、
後に福原姓を名字とした事に始まります。
「寶嶺宗隣居士 覺霊」。
14代当主福原元俊の墓。
13代広俊の嫡男に生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
当時の福原家は吉敷を領していましたが、
寛永2年(1625)の知行地替えで、
宇部に移封されています。
ちなみにこの14代元俊の他、
12代当主が元俊を名乗っていました。
「慈雲院殿乾底宗泉居士 覺霊」。
15代当主福原広俊の墓。
14代元俊の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
当役(江戸家老)及び当職(国家老)を歴任し、
自領の宇部に宗隣寺を再建しました。
この広俊の他に8代、10代、13代と、
広俊の名を名乗っています。
「英性院殿信岩宗雄居士 覚霊」。
16代当主福原広頼の墓。
15代広俊の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しており、
中御門天皇の即位祝賀使を務めますが、
32歳の若さで病死してしまいます。
「性源院殿天峯道真居士 覺霊」。
17代当主福原広泰の墓。
15代広俊の末子として生まれ、
大野毛利家に養子となっていましたが、
兄広頼の急死により養子縁組を解消。
福原家の家督を継いでいますが、
兄と同じく32歳で死去しています。
「光宅院殿天寧崇祐大居士 霊塔」。
18代当主福原元貞の墓。
須佐益田家7代益田就賢の次男に生まれ、
17代広泰が早逝してしまった為、
末期養子となって家督を相続。
桜町天皇の即位祝賀使を務めています。
「常在院殿月峯宗鑑大居士」。
19代当主福原広門の墓。
18代元貞の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
毛利隆元二百回忌の総奉行を務め、
当役や当職を務める等しています。
48年間当主を務めた後、
病を理由に隠居しました。
「清風齋猗園信誓居士」。
20代当主福原就清の墓。
19代広門の嫡男として生まれ、
部屋住みで光格天皇即位祝賀使を務め、
関東諸河川普請手伝では総奉行に就任。
父が現役であった為に当主在任は短く、
当主就任後僅か2年で死去しました。
「智徳院殿高巖義尚大居士」。
21代当主福原房純の墓。
徳山藩7代毛利就馴の庶長子に生まれ、
20代就清の養子となって家督を相続。
真締川の河川改修工事を行い、
御国加判役等を務めました。
45年の当主在任の後に死去。
「仁岳院殿湛源慧流大居士
真相院殿貞〇〇〇大姉」。
22代当主福原熙賢とその奥方の墓。
21代房純の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
僅か10日で病死しています。
奥方は徳山藩8代毛利広鎮の娘。
「好謙齋道光宗貴居士」。
23代当主福原親俊の墓。
22代熙賢の長男として生まれ、
祖父の21代房純が死去した後、
父が家督を相続していますが、
その父が急死してしまった為に、
僅か4歳で家督を相続しています。
家臣子弟に学問を推奨し、
郷校晩成舎(後に菁莪堂に改称)を設立。
城西海辺警衛惣奉行を務めており、
安政5年には兵庫警衛惣奉行に就任し、
兵庫に出張していますが、
在任中に病に倒れてしまい、
同年に26歳で死去しています。
24代は22代熙賢の正室真相院の弟で、
徳山藩8代広鎮の六男福原元僴が相続。
彼は禁門の変の責任を背負って自刃し、
宇部の宗隣寺に葬られています。
■関連記事■
・山口県山口市 玄済寺/福原広俊墓所
13代当主福原広俊の墓所。
・山口県宇部市 宗隣寺
自領宇部にある福原家菩提寺。