善福寺は藍場川沿いにある臨済宗寺院。
山号の指月山からもわかるように、
始め指月山に創建された寺院でした。
毛利輝元が指月山に居城を築くまで、
指月山には吉見家の居館があり、
指月城の築城に伴い居館は移され、
善福寺も現在地に移転されています。
「善福寺」。
本堂は寛永6年再建のもの。
寺域は藍場川に接しており、
歴史的景観保存地区となっています。
墓地には長州藩士の墓も多く、
時間を掛けて参拝したいのですが、
今回は吉見広長の墓が目当て。
吉見家は大野毛利家に連なる為、
外せない人物として参拝した次第です。
「吉見家先祖合葬墓」。
吉見広長の墓とされる合葬墓。
広長の法名は覺林院殿ですが、
微かに左側に刻まれています。
※右側の大〇院殿は不明。
吉見家13代吉見広頼の次男に生まれ、
兄の吉見元頼の早逝で継嗣となります。
慶長の役では毛利秀元の軍に従軍し、
黄石山城の戦いで一番首を挙げますが、
恩賞への不満から出奔しました。
これはすぐに捕まって蟄居処分となり、
後に許されて家督を相続。
しかし関ヶ原後の減封割合に憤慨し、
再び出奔して他大名に仕官を企てるも、
輝元が奉公構を出した為に叶わず、
長州に戻って帰参しています。
しかしその翌年に輝元の命により、
居館を襲撃されて自害しました。
広長の2度目の出奔後に、
吉見家は吉川広家の次男吉川政春が、
広長の妹を正室に迎えて家督を相続。
この政春が後に毛利就頼を名乗り、
大野毛利家の初代となっています。
■関連記事■
・山口県熊毛郡 海前寺跡/大野毛利家墓所
大野毛利家の歴代墓所。