松平忠直は福井藩2代藩主でしたが、
叔父にあたる2代将軍徳川秀忠と不仲で、
度重なる冷遇を受けて不満が募り、
次第に酒色に溺れて政務を疎かにし、
乱行を繰り返していました。
挙句に参勤まで拒否するに至った為、
怒った秀忠は忠直に隠居謹慎を命じ、
豊後の府内藩竹中家に預けられています。
忠直は豊後で27年の謹慎生活を送り、
慶安3年(1650)に死去。
遺骸は浄土寺で荼毘に付された後、
遺骨は3分割されて浄土寺と高野山、
そして晩年過ごした津守村に分骨。
津守村では居館跡に霊廟が建立され、
地元の人々によって回忌が行われており、
明治期に碇山に改葬されました。
碇山は碇山公園として整備されています。
「熊野神社」。
碇山頂上にある熊野神社。
碇山は碇島とも呼ばれており、
この辺りは大昔は海だったとされており、
碇山は海に浮かぶ島だったとされます。
碇島には神功皇后が碇を結わえた伝承があり、
地面を掘ると海の砂が出てくるらしい。
熊野神社は建久7年(1196)に創建され、
神仏習合で蓮臺寺と称していたとのこと。
明治期に愛宕神社と合併して津守神社となり、
昭和6年に熊野神社となったようです。
「一伯公霊廟」。
参道途中にある松平忠直の霊廟。
居館跡より碇山に改葬されていますが、
当時の場所から更に移動している模様。
「西巌院殿前越前太守
相公相譽蓮友大居士 神儀」。
霊廟内の松平忠直の墓。
配流された忠直は初め海沿いの萩原村に住み、
後に津守村に移転させられました。
これは海からの逃亡を警戒したとされます。
津守では神仏へ帰依して余生を送り、
慶安3年(1650)に56歳で死去。
上記の様に居館に分骨が埋葬されて、
この墓石と霊廟が建てられたとのこと。
「眞田栗毛埋所」。
山麓にある[真田栗毛]の墓。
忠直は大坂夏の陣で真田信繁と戦い、
これを討ち取る戦功を挙げており、
その恩賞として信繁の愛馬を拝領。
豊後にも連れて来ていたとされ、
この墓はその[真田栗毛]の墓とのこと。
碇山より400m弱西にある居館跡。
「松平忠直居館跡」。
住宅地にある忠直の居館(津守舘)跡。
目付が付けられた監視生活でしたが、
屋敷は広く5000両の賄料もあった為、
ある程度は快適な暮らしだった模様です。
この辺りに霊廟が建立されていました。
■関連記事■
・大分県大分市 浄土寺/松平忠直霊廟
もうひとつの松平忠直の霊廟。
・福井県福井市 大安寺/福井藩越前松平家墓所
福井にある結城秀康以下藩主らの墓所。
・東京都台東区 谷中霊園/津山藩松平家墓所
津山藩越前松平家の墓所。