谷中霊園内の寛永寺谷中第二霊園に、
津山藩越前松平家の墓所があります。
「津山藩松平家合祀墓」。
津山藩越前松平家の合葬墓。
五輪塔の裏側に刻まれた文によると、
三世慧照公以下五世及び子女22人は、
概ねが西久保の天徳寺に葬られ、
他に各1名が青松寺及び感応寺に埋葬。
墓地取扱規則の改正で移転を命じられ、
ここに合祀されたとなっています。
つまり初代を結城秀康として、
3代松平光長以下5名の藩主が天徳寺、
他2名が青松寺と感応寺に埋葬され、
それらが集められて合葬されたようで、
3代光長、4代(津山藩初代)松平宣富、
5代(2代)松平浅五郎、6代(3代)松平長煕、
7代(4代)松平長孝、8代(5代)松平康哉、
9代(6代)松平康乂、10代(7代)松平斉孝、
及び子女22人の合葬墓です。
「文定院殿成譽寂然確堂大居士」。
11代(津山藩8代藩主)松平斉民の墓。
11代将軍徳川家斉の十五男として生まれ、
津山藩10代松平斉孝の養嗣子となり、
養父斉孝の隠居により家督を相続しました。
治世では財政改革などを行っており、
斉孝の四男松平慶倫を養嫡子とし、
安政2年に家督を譲って隠居しています。
幕府より隠居料1万俵を給されて、
津山に隠居して余生を過ごしていましたが、
藩内の混乱に際して江戸に赴き、
藩論を勤皇に統一する役割を果たした他、
徳川宗家を継いだ徳川家達の後見人となり、
静岡藩の藩主となった家達を助けました。
明治24年、死去。
12代(津山藩9代藩主)松平慶倫の墓は、
岡山県津山市の愛山松平家墓所です。
「文郁院殿恵譽秀徳蘭渓大居士(左)」、
「誠光院殿明譽随照雙葉大姉(右)」。
14代当主松平康民と夫人八百子の墓。
8代藩主斉民の四男として生まれ、
明治11年に13代松平康倫が死去し、
これに伴って家督を相続しました。
明治17年に子爵となりますが、
支流と見ていた福井松平家が伯爵となると、
勝海舟を通じて昇爵運動を行いますが、
政府には認められませんでした。
大正10年、死去。
この他に新しい墓石が建てられ、
松平家先祖代々之霊位という墓もあり、
これが新しい累代墓となっているようで、
こちらに13代康倫も合葬されています。
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津山藩越前松平家の居城跡。