慶長6年(1601)に熊本藩主加藤清正は、
瀬戸内海への航路確保の為に、
鶴崎を領地とすることを幕府に請願し、
豊後国大分郡、直入郡、海部郡が、
熊本藩の飛地となりました。
清正は熊本城の札ノ辻から、
鶴崎までの31里を街道として拡張整備し、
これを参勤道としています。
その終点である鶴崎は港町として整備され、
出航前に藩主が休憩する[御茶屋]を設置。
街道沿いを宿場として整備した他、
埋め立てを行って街造りを進めました。
藩主家が加藤家から細川家に代わっても、
鶴崎の重要性は変わらず発展を遂げ、
熊本藩の豊後国領における政治、経済、
そして軍事の中心として栄えています。
大分市鶴崎周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが鶴崎宿跡。
「維新前鶴崎町全景図」。
「鶴崎宿跡」。
街道は国道197号線沿い。
現在は主要道路となっている為、
遺構や面影は全くありません。
中鶴崎二丁目交差点を南へ進み、
2つ目の四差路を西へ。
「熊本藩鶴崎御茶屋跡」。
御茶屋跡は現在の鶴崎小学校敷地。
藩主が出航前及び入港後の休憩に使用する他、
周辺の藩領支配を行う役所でもありました。
「鶴崎城跡
熊本藩鶴崎御茶屋跡」碑。
元々は大友家の支城鶴崎城だった場所。
この鶴崎城は吉岡鑑興の妻妙林尼が籠城し、
奇策を用いて島津勢の大軍を退けた城。
その智略と武勇は語り草となっています。
御茶屋跡から東へ進む。
「本陣和泉屋跡」。
[グループホーム菜の花]の敷地が、
本陣和泉屋八右衛門邸の跡。
文久3年の長州藩による外国船砲撃事件では、
勝海舟が幕命を帯びて長崎へ向かい、
佐賀関に上陸した後で陸路で鶴崎に到着。
勝は随行した坂本龍馬らと共に、
この本陣泉屋に宿泊しています。
「伊能忠敬 宿泊跡」。
同敷地内にある跡碑。
本陣和泉屋には伊能忠敬も宿泊しました。
更に東へ。
「大野川」。
街道は大野川に突き当ります。
旅人は渡し舟で渡河していたようで、
渡し場は数か所あった模様。
大野川を渡ると道は東に伸び、
五里(約20㎞)程行くと佐賀関に至ります。
転じて熊本藩の参勤交代では、
東には行かず御茶屋から北へ行き、
鶴崎湊から海路を使用しました。
「肥後藩主参勤交代時船着場跡」碑。
新堀公園内にある跡碑。
熊本藩の御座船[波奈之丸]の発着地は、
この公園辺りだったとのこと。
[波奈之丸]は数十艇の供船を従えて、
参勤交代に向ったようです。
■関連記事■
・大分県大分市 佐賀関/海舟龍馬宿泊地
豊後(肥後)街道の終点。