奥の院墓地にある明智光秀の墓所。
明智光秀は本能寺の変で織田信長を討ち、
羽柴(豊臣)秀吉に討たれた人物です。
山崎の戦いで敗れた光秀家臣津田重久が、
追手から逃れて高野山に逃げ込んだ際、
主君である光秀の追善供養を依頼し、
建立された供養塔とされています。
「明智光秀墓」。
明智光秀の墓。
光秀は朝倉義景に仕えた後、
将軍足利義昭に臣従していたようで、
後に織田信長の家臣となると、
義昭と信長の間を取り持った他、
公家との交渉にも手腕を発揮しました。
旧主朝倉義景と姉川の戦いで戦い、
比叡山焼き討ちの実行部隊としても活躍。
丹波平定でも大いに活躍し、
信長の信任を受け近畿方面を統率します。
中国攻めで秀吉が援軍を要請すると、
信長は光秀に支援を命じますが、
出陣後に突如反転して京都に向かい、
本能寺に宿泊する信長を襲撃し、
二条城の継嗣織田信忠も討ちました。
この知らせを来た秀吉は京都へ向かい、
山崎で光秀と秀吉の両軍が激突。
光秀は敗れて敗走しますが、
その途上で農民の竹槍で殺されています。
ちなみにこの供養塔を建てた津田重久は、
秀吉家臣尾藤知宣に仕えて賤ヶ岳で活躍。
後に豊臣秀次の家臣となりました。
秀次の自刃後は浪人を経て前田利長に仕え、
前田家家臣として86歳まで生きています。
■関連記事■
・高野山奥の院墓地/石田三成墓所
奥の院墓地にある石田三成の墓。
・高野山奥の院墓地/武田信玄墓所
奥の院墓地にある武田信玄の墓。
・和歌山県伊都郡 高野山奥の院墓地
弘法大師の御廟参道にある巨大な墓地。
