山形県尾花沢市 尾花沢代官所陣屋跡

尾花沢代官所は最北端の幕府代官所

元々尾花沢領は最上家の領地でしたが、
最上家が改易された後に新庄藩領となり、
続いて山形藩領となりました。
山形藩2代鳥居忠恒は実子が出来ず、
弟の鳥居忠春がいるにもかかわらず、
これを養嫡子とせずに死去。
しかも同母弟の新庄藩の養嫡子戸沢定盛に、
家督を譲ると遺言をしていたと判明。
これは当時の法令に違反していた為、
山形藩鳥居家は改易となります。
※後に忠春が高遠藩3万石で鳥居家を再興。
その為に尾花沢領5万石は天領となり、
尾花沢代官所が置かれました。

陣屋は後に尾花沢楯跡に移り、
出羽国天領の中心的統治機関となって、
以後は幕末の安政2年まで続いています。

尾花沢代官所跡(現尾花沢小学校)」。
元々は尾花沢楯という城があった場所で、
尾花沢藤左衛門がその城主でしたが、
延沢氏の攻撃で落城して廃城。
そのまま破棄されていたようです。
堀や土塁等遺構らしきものはありますが、
正確な縄張りなどはわかっていません。


稲荷愛宕両所神社」。
この鳥居は天明3年(1783)の建立で、
当時の尾花沢代官早川伊兵衛が建てたもの。
鳥居はあるけど社殿が見あたりません。

天保期の名代官大貫次右衛門は、
天保の大飢饉に際して善政を尽くし、
窮民救助田畑維持に努め、
翌年の豊作に導いた大恩人とされ、
領民に慕われていたとされています。

安政2年12月に尾花沢代官所は廃止され、
1万4000石が松前藩預りとなり、
他は寒河江代官所の管轄となって、
尾花沢陣屋は役人の詰所になりました。
最後の尾花沢代官は羽田十左衛門正見
各地の代官を務めた後に目付となり、
天狗党の乱では大目付黒川盛泰と共に、
天狗党に加担した宍戸藩松平頼徳に対し、
切腹の申し渡しを行っており、
以後、勘定奉行並作事奉行並を務め、
幕府の瓦解後は帰農しています。

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