福井藩5代及び7代藩主松平昌親(吉品)は、
支藩吉井藩の藩主でしたが、
兄で4代藩主の松平光通が継嗣なく自刃し、
その遺言によって福井藩主となっています。
しかしながらこの藩主就任は、
幕府裁定によって遺言が重視されたもので、
昌親や光通の兄松平昌勝を推す派閥や、
光通の庶子松平直堅を推す派閥には、
到底納得できないものでした。
昌親もこれに感づいていたのか、
僅か2年で隠居してしまい、
昌勝の子松平綱昌に家督を譲ります。
これで藩内は纏まるかに見えましたが、
藩主に就任した綱昌は奇行に走り、
理由無く側近を殺害したり、
政務を疎かにしたり、
挙句は参勤交代も怠ったりしています。
幕府は綱昌を発狂したとして強制隠居させ、
福井藩は前藩主昌親が減封のうえで相続。
昌親は再任すると吉品と改名しました。
この吉品の墓所が瑞源寺にあります。
「瑞源寺」。
瑞源寺は昌親が生母高照院の菩提を弔う為、
廃寺となっていた同寺を中興したもので、
昌親の福井藩主就任後、
現在地に移されています。
「本堂」。
本堂は幕末の万延元年に再建されたもので、
本丸の御小座敷を移築したものという。
隣接する書院も大奥御座之間の移築で、
実は福井城唯一の建屋遺構。
裏手山腹に吉品と高照院の墓があります。
「當山開基 探源寺殿羽林次将
龍山悟徹大居士」。
5代及び7代吉品(昌親)の墓。
永代菩提寺の大安寺にも墓碑がありますが、
吉品は母と共に葬られる事を望み、
遺骸はこちらに埋葬されています。
「高照院殿千峯慈松大姉」。
3代松平忠昌の側室奈津の墓。
忠昌死後に剃髪して高照院となっています。
この2つの墓はかつては霊屋付きでしたが、
吉品の霊屋は福井大地震で倒壊しており、
高照院の霊屋は近年まで残っていましたが、
老築化で解体されており、
墓の傍らに部材が置かれています。
※高品の墓の写真の右端に見えます。
上記の墓所を探して裏山を登ったら、
忠霊場がありました。
「福井忠霊場」。
日清から大東亜戦争の戦死者を祀る忠霊場。
従って幕末維新期のものはありません。
ここは招魂社ではないようで、
現在は瑞源寺が管理されているようです。
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