糸魚川は漁業が盛んな他に塩が作られ、
その塩や海産物が信州方面に運ばれていました。
糸魚川から塩尻までの道は糸魚川街道と呼ばれ、
※千国街道、松本街道とも呼ばれる。
始点である糸魚川は大変賑わっていたという。
糸魚川は高田藩忠直流越前松平家領でしたが、
越後騒動で忠直流越前松平家が一時改易となり、
後に有馬清純、本多助芳に与えられた後、
越前松平家支流の松平直之に与えられました。
この系譜は福井藩主松平光通の長男松平直堅を祖とし、
直堅がお家騒動で福井藩を継げなかった事から、
賄料1万俵を支給されて定府大名となった家。
直堅の次代松平直知が嗣子無く早世した為、
直堅の娘の婿養子となった直之が家督を継ぎ、
※直之は廣瀬藩主松平近時の三男。
諸役を務めた後に先祖の功績が認められて、
糸魚川1万石を与えられています。
こうして立藩した糸魚川藩でしたが、
所領を与えられた為に藩経営が必要となった事と、
天災等の災いが相次いだ事により、
賄料1万俵の時より財政は逼迫するに至りました。
旧街道である県道222号線南側の横町2丁目付近が、
糸魚川陣屋のあった場所。
糸魚川藩主は定府であった為に御殿は建てられず、
郡代が派遣されるだけの小規模なものだったという。
残念ながら市街地となって遺構は殆ど残っていませんが、
唯一陣屋井戸の跡が陣屋の痕跡となっています。
古美術「冨江洗心堂」前の路地。
この路地の先に井戸跡があります。
「糸魚川陣屋の井戸跡」。
近年まで井戸は現存していたそうですが、
現在は埋まってしまっています。
見てのとおり路地の真ん中にあったので、
車が通れなかった為に埋められたのでしょう。
幸いにも痕跡が残っていますので、
最低でもこれ以上は無くさないで欲しいものです。
財政難を抱えた糸魚川藩は度々増税や徴収を行い、
領民は困窮すると共に不信感を抱きます。
そして5代藩主松平直益の治世の文政2年、
郡代黒川九郎治が町年寄松山察右衛門と結託し、
御頼金9千余両を領内での徴収に割り当てた事から、
領民の代表48人が江戸に上り藩主直益に直訴。
一方、糸魚川では松山宅が領民らに打ち壊されました。
※黒川騒動という。
安政の大獄で福井藩主松平慶永が隠居謹慎処分となった為、
7代藩主松平直廉は越前松平宗家の家督を相続。
松平茂昭に名を改めています。
8代は同族の明石藩松平家より松平直静を迎えますが、
若年の為に隠居していた6代藩主松平直春が藩政を代行し、
そのまま明治維新を迎えました。
※糸魚川藩は新政府軍に恭順して軍需品を供出。
文久の改革で定府大名の帰国が許されると、
簡素な糸魚川陣屋では都合が悪くなり、
糸魚川にあって廃城となっていた清崎城跡に、
清崎御殿の建設が開始されています。
しかし慶応4年3月に直静が国入りした際には、
まだ完成しておらず直静は糸魚川陣屋に入りました。
その後、藩名を清崎藩に改称。
清崎御殿を藩庁としましたが財政は安定せず、
廃藩置県により清崎県になりますが、
程なく柏崎県に統合されています。
【糸魚川藩→清崎藩】
藩庁:糸魚川陣屋→清崎御殿
藩主家:越前松平家
分類:1万石、親藩大名(定府)
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