長府毛利家初代藩主毛利秀元は、
祖母である乃美大方の菩提寺を建立。
はじめ妙寿寺と名付けられていましたが、
後に父である穂井田元清の戒名から、
笑山寺に改称されました。
※元清の戒名は洞雲寺殿笑山常快禅定門。
乃美大方は毛利元就の側室(又は継室)で、
元清の他天野元政、小早川秀包の生母。
※元政は右田毛利家祖。
秀包は吉敷毛利家祖。
元就死後は元清や孫の秀元に引き取られ、
関ケ原の戦いの後に長府に移住しますが、
移住後すぐに死去しています。
「笑山寺」。
檀具川中流付近に位置しています。
笑山寺の名は功山寺に名付けられますが、
2代藩主毛利光広が笑山寺を功山寺に変え、
この妙寿寺を笑山寺と改称させました。
「本堂」。
本尊は如意観音。
斜めに伸びる参道が珍しい。
「瀧川辨三君彰功碑」。
日本のマッチ王瀧川辨三の顕彰碑。
長府藩士瀧川清の二男に生まれ、
乃木希典や桂弥一らと集童場で学び、
長府報国隊が結成されるとこれに入隊し、
兄と共に北越戦争に参戦。
兄の瀧川六郎は長岡で戦死しています。
維新後は神戸でマッチ製造会社を営み、
[日本のマッチ王]と称されています。
多数の関西企業の取締役を歴任し、
貴族院多額納税者議員等を務め、
滝川中学校・高等学校を設立。
大正期に荒廃していた笑山寺を復興し、
この縁から顕彰碑が建てられました。
題字は渋沢栄一、撰文は桂弥一。
「毛利家墓所」。
笑山寺墓地の一角にある長府毛利家の墓所。
2代藩主毛利光広および、
7代藩主毛利師就の墓があります。
「二代藩主毛利光広の五輪塔」。
2代藩主毛利光広の墓。
初代秀元は享年72歳と長生きしましたが、
その子光広は38歳で病没しています。
彼によって笑山寺と改称されましたが、
ここを墓所としたのはその縁から。
「七代藩主毛利師就の五輪塔」。
7代藩主毛利師就の墓。
2代光広が墓所としたのはわかりますが、
師就が墓所としたのはよくわからない。
彼は松の廊下で水野忠恒に斬りつけられ、
殺されかけるという災難に遭っています。
忠恒が師就を斬りつけた理由は、
自分の領地が取り上げられて、
師就に与えられると思ったから。
意味不明の証言で乱心とされて改易。
師就は鞘に収まった刀で応戦した為、
何のお咎めもなし。
この事件が起こった松の廊下では、
浅野内匠頭の刃傷事件も起こっていますが、
長府藩は後に起こった赤穂事件の際、
四十七士のうちの十士を預かっており、
同じく十七士を預かった熊本藩が、
彼らを厚遇して扱ったのに比べ、
普通の罪人のように扱った為、
藩の評判を落としました。
※その後、待遇を改善。
師就は忠恒に斬りつけられた際、
吉良義央に倣い鞘刀で応戦したという。
この墓は遺骨の入っていない詣り墓で、
埋葬されたのは江戸の泉岳寺。
奇しくも四十七士と同じ場所でした。
笑山寺は長府毛利家の菩提寺で、
功山寺、覚苑寺は幕末史に登場しますが、
※功山寺は三条実美ら五卿が滞在し、
高杉晋作が挙兵した場所。
覚苑寺は攘夷戦時の長府藩本陣で、
奇兵隊の屯所にもなっています。
残念ながら笑山寺は何ら登場しません。
故に訪問する機会はありませんでしたが、
今回は長府毛利家の墓所として、
笑山寺を訪問してみたというわけです。
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初、5、9~12、14代の墓所。
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3、6、13代の墓所があります。