何度も功山寺の記事をUPしていますが、
藩主家墓所としての記事がなかったので、
今回は藩主家墓所としての記事にしました。
長府毛利家の菩提寺は3つ。
この功山寺の他に笑山寺と覚苑寺があり、
長府藩主の墓が振り分けられています。
功山寺には初代毛利秀元の他に、
5代毛利元矩、9代毛利匡満、10代毛利匡芳、
11代毛利元義、12代毛利元運、
14代毛利元敏の墓があり、
3つの墓所の中では最大規模の墓所です。
功山寺の創建は鎌倉時代の嘉暦2年。
後醍醐天皇の勅願寺にもなっており、
足利尊氏から寺領が寄進されています。
室町時代には大内家の庇護を受けて栄え、
大内家が毛利元就に滅ぼされる際には、
最後の当主大内義長が仏殿で自刃。
※当時の寺名は長福寺。
後に長府藩初代毛利秀元が再興し、
秀元の死後に功山寺と改称されました。
※秀元生存時は笑山寺と呼ばれています。
「山門」。
何度ここの写真を撮っただろうか。
参道は薄暗くひんやりとしており、
日に照らされる正面の山門が、
極楽浄土への入口のように感じられます。
「仏殿」。
国宝に指定されている典型的な禅宗様仏殿。
創建前より仏殿は建てられていたという。
この仏殿で大内義長が自刃していますが、
義長は豊後の大名大友義鑑の次男で、
大友宗麟の実弟にあたります。
大内家16代大内義隆が陶晴賢に殺され、
その晴賢が大内家の新当主に擁立。
しかし晴賢は厳島の戦いで敗死してしまい、
大内家は衰退して毛利家の侵攻を受け、
功山寺で毛利勢に包囲されました。
※義長の墓は功山寺墓地にあります。
「七卿遺蹤碑」。
本堂前に設置された記念碑。
功山寺は七卿のうち五卿が滞在した寺です。
※三条実美、三条西季知、四条隆謌、
東久世通禧、壬生基修。
他2名の錦小路頼徳は病没。
澤宣嘉は生野の変に擁立。
「高杉晋作回天義挙銅像」。
颯爽と馬に乗る晋作像。
この像も何度写真を撮っただろう・・。
今まさに挙兵するという感じがカッコいい。
さて、本題の長府藩毛利家墓所です。
「毛利家墓所」。
仏殿の裏手にある長府藩毛利家の墓所。
・・・が、残念ながら非公開。
数々の藩主家の墓所を巡っていますが、
たまに非公開の墓所が存在します。
こういうのはご子孫の意向なのか、
管理する寺社の意向なのでしょうか?
仮にご子孫の意向だとしても、
藩主は公人で歴史上の人物だと思う。
僕は墓所を訪問する時は手を合わせますし、
写真も撮らせて下さいとお願いもする。
入場料を取ってもいいと思うし、
厳しい参拝の方法を設定してもいいと思う。
ですので完全非公開は止めて欲しい。
とはいえ門には大きな穴が開けられており、
遠目からですが墓所の様子は確認できます。
中央に見えるのは初代藩主毛利秀元の墓。
裏手に廻って後方の墓地より墓所を望む。
実はここから全景が確認できます。
初代を中心に5代、9代、10代、11代、
12代の藩主墓と乃美大方の墓が並ぶ。
最後の藩主である14代毛利元敏の墓は、
石柵の外にあるようで確認はできません。
※右端の柵外のあたり。
実はこれらの藩主の墓は14代元敏以外、
遺骨の埋葬されていない[詣り墓]で、
これらの藩主は全て江戸で死去している為、
遺骨は江戸の泉岳寺に埋葬されました。
■関連記事■
・山口県下関市 笑山寺/長府藩毛利家墓所
同じく長府毛利家の墓所。
・山口県下関市 覚苑寺/長府藩毛利家墓所
こちらも長府毛利家の墓所。
・下関市長府 秋の功山寺
功山寺は秋が一番良い。
・下関市長府 雪の功山寺
功山寺挙兵は雪が降っていたという。
・下関市長府 功山寺山門
山門が改修されています。